「つっ!」
後ろで一つに纏めた、日没前の空を映したような紫紺の長髪が大きく揺れる。 視界が後ろに流れ、白銀の甲冑に包まれた足が大地を噛む。 聖剣と呼ばれた、曇った刃の剣を握る両手が軽く痺れる。 (これが……魔王) 軽く振るった一撃が、こんなにも重い。 衝撃に逆らわずに自分で跳んだのではあるが、受け止めるつもりでも吹き飛ばされていただろう。 力の差に萎縮しそうになる精神に鞭をいれ、幾分の幼さを残す整った顔を引き締め、氷河を映したような蒼い瞳で相手を睨みつける。 いわゆる所の勇者である少女はただ一人、同じく単身で現れた邪悪と闇を束ねる冷酷な支配者――魔王と呼ばれるそのモノと相対していた。 古く初代が封じた魔王は、幾度かの復活ごとに、初代の血を引く新たな勇者によって倒されてきた。 そして今日、十二代ぶりに蘇った彼は、先年三十七代目となった少女勇者とまみえたのである。 (なる、ほど……) 今の一合で十メートル余りに間合いがひらいた。少女勇者は、改めて魔王の姿を凝視する。 黒檀色の枯れ木のような手には少女の倍近い長さの杖を持ち。闇を切り取ったような深淵を思わせる色の、襤褸のようなローブに身を包み、フードに隠された表情は他者が窺うことを拒絶している。 『…………』 かすかに笑みを浮かべたような気配がしたと思った瞬間、像を置き去るような迅さで魔王が間合いをつめてくる。 ぎりぎりの所で繋がっていたフードがその衝撃で千切れ飛び、捩れた角と尖った耳をもつ、禍々しさを凝縮したような容貌が、儚げな晩秋の陽光に照らされる。 (まさに――本物!!) 伝承通りの姿と力に、少女の心が激しく振動する。 繰り出された魔王の杖を聖剣で払い、戻しの薙ぎを低くかがんでの走りで擦り抜ける。 そのまま、少女は魔王の首を斬り飛ばさんと聖剣を閃かせるも。 魔王の、杖持たぬ左手によってしっかと受け止められる。 (やっぱり、この剣――) 受け止めた手の平から白煙をくゆらせながらも、不敵な笑みを向けてくる魔王へ、心の口で舌打ちをする。 全ての邪を切り裂くはずの聖剣は、確かに魔王の纏う闇までは斬ったものの。その頑健な骨肉と、身に詰まった黒い力にあえなく阻まれた。 『どうした? 確かに見覚えがあると思ったが……。幾百年かの間に鈍ったか?』 魔王が、自らに長く冥い(くらい)眠りをもたらした忌まわしい剣が、既に恐怖の対象にならぬことを知って、余裕と安堵を嘲笑に変えて少女に向ける。 「うるさいっ、寝起きのお前くらい、これで十分だ!」 低い嘲りの声を強い口調で断ち切るが、それが虚勢に過ぎないことは、少女自身が感じている。 伝承の通りに現れた魔王に対してその真価を示さない聖剣が、そして――なによりも、不甲斐ない自分がうらめしい。 (わたしが、勇者に、この剣を扱うに相応しくないと……) そういうことなのだろうか。 世界はやはり、今でも、あの人を――。 (だとしても、今はわたしが勇者だ!) 「負けられない!」 そう、未熟な少女を助けて旅をしてきた仲間達は、皆彼女を守って命を落としてしまった。 いまさら泣き言を言っても、彼等が生き返る訳ではないのだ。 「はぁあああああっ!!」 少女の裂帛の気声が、かつては緑と清浄な水をたたえていた荒野に轟く。 『むっ』 少女の前進を阻むようにと左手が生んだ黒い盾状の力場は、聖剣によって壊される。 杖を一振りして十二の闇の刺を放つが、身に刺さる前に斬り砕かれる。 (掠めるぐらいは無視。一気に――行く!) 魔術の使えない少女にとっては、接近しなければ話にならない。 「はっ!」 胸部中央、五つあるという心臓の一つを狙って突き出した少女の剣は、魔王の杖によってその軌道を逸らされる。 「ちっ!!」 逸らされた軌道まま首を狙って刃を走らせる。 『よく磨いているが……まだ甘い』 右斜め約四十度の切り上げは、またも杖に阻まれる。 『フッ――!』 少女が剣を引くよりも早く、魔王の闇紫の唇が口笛を吹くように狭められ、一息。 撃ち出された衝圧が、少女の胸部を激しく叩く。 「づぁうっ!」 打ち飛ばされる少女の体から、押し出されるようなくぐもった声。 薄い胸を覆った胸甲が不安げに軋む。 「っ……」 内側を傷めたか、桜桃のような春を感じさせる小さな唇から、少しばかりの鮮血が吐き出される。 『ふむ。わざわざこの場所を選んだのは、我が城が壊れるのを避けようとしたからなのだが……』 言外に、それほど用心する必要もなかったと。 明らかな見下しと、肩透かしを受けたような不満を見せる。 『この地に並ぶ、新たなる骸となるがいい』 魔王が滅ぼしてより五百年。未だに生きるものの無い不毛の大地に、再び死が撒かれるのだろうか。 「その新しい死は、諸悪の根源のものを。この場所の慰めとして贈るわ」 『――面白いが、少々無謀に過ぎるな』 地面を踏み蹴り、思い切りのいい加速でもって跳び込んできた少女の剣を杖で弾く。 無造作だが、その一撃は重く。剣こそ放さなかったものの、それ故に大きく体勢を崩してしまう。 (っ! やら、れる――) 禍々しい笑みを少女に向けた魔王が、ゆっくりと、見せ付けるように鋭く尖った杖の先を振りかざす。 そのまま――少女の細い首を貫くというその瞬間、後方から跳び込んできた何者かの剣によって杖が弾かれる。 『な、に……?』 突然のことに思考が追いつかない魔王に、現れた男は懐から深海色の拳大の珠を投げつける。 そして剣を突き出し、魔王に触れる寸前の珠を打ち砕く。 『ぬぅっ――!?』 砕けた宝珠が、籠められていた力を解放する。魔王の足元を中心として純白の輝きが走り、光の法円を描き。 その闇の力を打ち消して体を縛る。 「――大丈夫か」 魔王の動きが止まったのを見た男は、倒れこんだままの少女へと駆け寄る。 短く刈り込んだ黒髪の、無精髭をまばらに残す、左頬に刃物で出来たと思われる大きな傷跡を持つ精悍な顔立ち。 所々を金属で補強した革鎧を身に着けた、その三十男に面識は無い。 無いのだが、自分を心配げに見下ろしてくるその顔は、少女の記憶にある像に結びつく。 「…………父、さん?」 若い頃、少女の母を含めた仲間達と共に描いてもらったという、一枚きりの肖像画でしか見たことが無いが、姿、何よりも雰囲気がそうだと告げている。 未だ世界にはびこる魔物を退治して回る、勇者の三十六代目で。 ……全て投げ出して、逃げ出した臆病者。 「悪い。風の噂でお前が旅に出たことを知って。どうしても、黙って見ていられなかった」 まだ言葉も喋れない頃に別れて十年余。父親としての実感が湧きにくいのか後ろめたいのか、男は言葉を選ぶようにゆっくりと話す。 「……そう」 「すまない、今更顔を出すつもりは無かったんだが……」 「そうじゃない! そうじゃなくて。あ、会えるなんて、思って、無かったから……」 短く素っ気無い返答を非難だととった男は、悲しげに目を逸らす。 その勘違いに、少女は慌てて心の内を言葉にする。 ……確かに、恨んだこともあった。情けない、みっともない男だと、恥ずかしく思ったこともあった。 けれども、少女のそんな感情は、最初に仲間が死んだ時にはすっかり消し飛んだ。 怖い。勇者というものは、自分が考えていたよりもはるかに重い。 勇者のためには自らの命すら投げ出すその姿は――。そして、そうまでして守られなければならない自分は――。 自分が、それだけの価値なぞない人間だと、責め苛まずにはいられない。 (それでも……) それでも、心だけは強くあろうと、そして肉体的にも強くなろうと、必死に踏みとどまり、頑張ってきた。 幾度もくじけそうになった。自分よりも長い間戦い続けた彼が、それに敗れてしまったとして、果たして責められるのだろうか。 勇者として敬われ、奉られても、けして超人などではないのだ。 先祖が遥か昔に奇跡を起こしたというだけの、ただの人間。人類の希望などという、ご大層な位置に据えられた、象徴的存在。 ”ひと”より強くとも、あくまで”ひと”である故に、その命を救うために仲間の命が費やされる。 「だから、恨んでない、よ。ほんとに。……今は」 「そう、か」 「母さんも、まだ待ってる」 「……そうか。本当に、色々と、迷惑をかけた」 「うん」 短い沈黙が場を満たす――と、男の背後から火花の散るような激しい音が起こる。 振り返り見れば、魔王を縛っている光が悲鳴を上げているらしい。 「さすがに魔王か。力のある魔物も一昼夜は完全に封じるんだが……」 男の小さな舌打ちは、隠し切れない怯えを含んでいる。 しかし――違う。 元々がこちらから仕掛ければ解除される足止め専用のものであり。この少女が他の誰かが傷つけられることが分かっていて、自分だけ逃げ出せるような性格ではない以上、こうなるのは分かっていたのだ。 その上で、今まで陰から見守ってきただけのこの男は、舞台に上がったのだ。 自らの剣と命で、この小さな勇者を守るために。 「剣を、かして」 「?」 逃げ出しそうになる自分の心を叱咤していると、唐突に少女が声をかけてくる。 男はその意図を計りかねながらも、言われるままに少女に自分の剣を渡す。 「はい、代わりに、これ」 「これは――」 少女に手渡されたのは、代々受け継がれてきた勇者の証。勇者にしか扱えないという無二の聖剣。 少女は、彼が姿を消してからずっと、その刃は曇ったままだと告げる。 「この剣も、まだ待ってる。自分の担い手は……”勇者”は、別にいるんだって」 「……そう、か」 体のどこかで、錆付いていたままの歯車に油を指されたような気分。 まだ動きはしないものの、静かにその準備を始める……。 「っ!」 「来た、か」 一際激しい炸音が響き、魔王にまとわる光が完全に消し飛ぶ。 黒い瘴気を立ち上らせながら歩を進める魔王は、少女の前に立つ男へと不快げな声を向ける。 『まだ本調子ではないらしい。この程度の呪縛を破るのに手間取るとはな――。さて、何用かな? これからそこの勇者を刻もうと思っていたのだが、邪魔をするつもりか』 「――そうだ。悪いが、邪魔させてもらう」 少しでも気を抜けば、際限なく震えだすだろう膝を必死に抑え込み、男は一握りの勇気を搾り出す。 「なぜかというと……。俺が――勇者だからだ」 声の震えまでは止められなかったものの、その一言が、男の覚悟を完全に固める。 長い間別れていた相棒の柄を、ゆっくりと、力強く、握り締める。 あの日から光を失ったままの聖剣は、再び淡く煌めきを集め始めた――。 |