コツ、コツ、コツ……。 前を歩く少年の後を、ゆっくりとつけていく。 その初恋の相手である幼なじみによく似た後姿は、彼を初めての獲物に選ばせた。 生まれ変わった、私の。 ハァー、ハァー、ハァー……。 自分でも気付かないうちに、呼吸が荒くなっている。 気付かれなかっただろうか? 彼に。 逃げられたりしたら、全てが台無しになってしまう。 そう。その少年は、本当に彼にそっくりだった。 何年経っても色あせない、彼の記憶。彼がそのまま年を経れば、きっとあの少年のようになるのだろう。 いとしい彼の肉を裂くのと同じような快感を、あの少年は与えてくれるのだろうか。 ザッ、ザッ、ザッ、ザッ……。 だんだんと、人通りの無い所へ入っていく。 彼は、どこへ行くつもりなのだろう? いや、どこでもいいのだ。 どうせ、私に食べられてしまうのだから。 その点では、彼が自分から人気の無い所へ行くのは好都合だ。 彼の血は、一体どんな味がするのだろうか。 カチ、カチカチ……。 夕暮れの街。 前を歩く彼の後ろ姿を見た時、私は心が躍った。 御主人様から教わった……夜の者が行う〈狩り〉というものを、初めてやってみたくなった。 今まで一度も、そんな気分にならなかったのに。 きっと、あの満月のせいだ。 心なしか血のように紅く見える、あの満月の。 おもわず、牙が鳴ってしまう ハッ、ハッ、ハッ、ハ……。 これからの事を想像すると、自然に呼吸が速くなる。よだれが垂れてしまう。 きっと、おあずけを喰わされた犬というのは、こんな気持ちなのだろう。 凄く、もどかしい。 今にも飛び掛りたくなるのを、じっと我慢する。 まだだ、まだ、早い……。 ザッ、ザッ、ザッ。 ここは、近所の山を少し入った所。 今までの山道から、いくぶんひらけた場所に出る。 彼が、ふと立ち止まる。 廃屋? 一体彼は、こんな所で何をするつもりなのだろう。 だけど、もういい。月が中天に差し掛かっている……頃合だ。 『我らの力の最も高まる時が、満月の夜、月が中天に収まった時。その時に力を得れば、お前は今よりももっと美しく輝く。美しい者こそ、私の傍に相応しい』 敬愛する御主人様のそばに居る為に、好きだった少年の面影を宿すあのコを??殺す。 何も難しい事はない。 後ろから忍び寄り、あの白い首に口をつけるだけ。 ただそれだけ、それだけで??何もかもうまくいく。 そう、何もかも。 「残念だけど、君に殺されてあげるわけにはいかない。僕には、やらなければならない事があるからね」 後ほんの数センチという所で、不意に彼が振り向いた。 思わず私の動きが止まる。 だって、振り返った少年の顔は、私の??。 2 「お休み。何もかも、今はいいから」 僕は彼女のわき腹に拳をめり込ませ、意識を失わせる。 彼女は、ただの被害者だ。 親玉を狩るまで、この狩りは終わらない。 僕は、彼女たちを呼び寄せるための囮で、彼女は僕を呼び出すための囮。 『なかなか、勘がイイじゃないか?』 『久しぶりだな』まるで旧知の友人に言うように優しく、けれども友人に向かって使うはずのない、限りなく冷たい声で??ヤツが言った。 『おいおい、友達の顔を忘れたっていうのか? いつから、そんな冷たいヤツになったんだ?』 『 やけに親しげに、なれなれしく。まるで、何年来の親友に対するみたいに??。 そう、半分は事実だ。アイツは僕の友人で??狩るべきモノ。 「よく、覚えているさ、 『つれない事を言う。それは、親友に言うセリフじゃないぞ?』 その大仰な仕草は、確かに以前のアイツのもので??だからこそ、激しく僕を苛立たせる。 「いつからだ……?」 『んん? そうだな……。というより、もう気付いているだろう? あの時以外に、俺が死にかけた事なんて無い。あの時に〈成って〉 いなければ、今ごろは墓の中だったろうからな』 確かに、そうだ。あのとき、僕は新しい力を得て……そして全てを失って……アイツは死んだ。 だから、アイツが今も〈生きて〉いるのなら??あの時以外には考えられない。 『あの時お前は目覚めたばかりで未熟だったからな。俺はお前がいなくなるまで、じっと墓の中で息を潜めてたのさ』 「ヤツの……入れ知恵か?」 『あの方の素晴らしさは、体験した者にしか分からんさ。俺は人間なんていう、下らない存在から進化したんだ』 僕達の現実を壊し、自分自身を呪われた夜の生物へと変えた張本人の事を称えるその恍惚とした表情は、ヤツが確かに人間でなくなってしまった事を僕に思い知らせた。 「なぜ、悠に手を出した?」 傍らで気を失っている少女「 まだ何も知らない子供だった頃の、淡い??想い。 『お前が帰ってくるのが分かったからな』 そう言って、髪を軽くかきあげる。 『あの時……文字通り血を分けた俺達は、お互いの存在を感じられる。お前だって、何かを感じてたんだろ?』 そう。確かに、僕は何か惹かれるものを感じていた。 アイツほどではないにせよ、僕も常人よりは多少感覚が鋭くなっているから。 『それに、知ってるか? アイツはお前の事が好きだったんだぜ。今も変わらず思い続けてる。アイツを好きだった俺じゃなく、お前の事をな!』 『アイツが俺なんか眼中に無くて、お前の事だけ見てるって知ったとき、目の前が真っ暗になったぜ』 「だから、ヤツの誘いに応じた」 『そうさ! 確かにヤツの言ったことは本当だった。見てみろよ、アイツはもう俺の事しか頭に無い!!』 狂ったように哄笑する晃を見て、僕の中の何かがはじけた。 熱い何かが、体の内側から流れ込んでくる。 「言いたい事は、それだけか?」 『ああん?』 「言いたい事はそれだけかって、聞いてるんだよ!」 なんだか、無性に腹が立つ。くだらない呪の力なんかで、女の心を手に入れたつもりなのか、このバカは! 『甘いんだよ!』 無造作に突き出した僕の左拳を、軽く掴んで握りつぶす。 ボキボキという、生々しい音が聞えてくるが、耐えられない痛みというわけでもない。 『ガッ!?』 そのまま、油断してるヤツのわき腹に右手に持ったナイフを突き刺す。 銀のナイフなんかではないけれど、それでも十分ダメージはある。そのまま、ヤツの肉を引き裂いてやる。 『くっそお、やってくれるじゃねぇか』 ハデに開いた腹の傷から、闇を思わせる真っ黒い血がどくどくと溢れている。 穢れた生命は、内を流れる物まで穢れている。 『だが、左手がその様子じゃ、威力のある重武器は使えねぇなあ??なに!?』 ヤツが驚いているのがありありと分かる。 それはそうだろう。確かにヤツに潰されたはずの僕の左手は、もうほとんど元通りになっている。 見ている間にも、完全に癒える。 「僕の手に入れた力は、再生能力。お前達、夜の眷属のそれよりもずっと強い??」 ヤツは僕との戦いに確実に勝つ為に、この満月の夜を選んだのだろう。 確かに、夜の者は月の満ち欠けによってその能力を左右される。 しかし、それでいてなお再生能力という点においては、僕のそれに遠く及ばない。 『これでも喰らえッ!』 ヤツの口が、口笛を吹くようにすぼめられる。 超圧縮された空気の塊が、弾丸のように撃ち出される。 「あづっ」 予想以上に速度があり、躱しきれず左肩を撃ち抜かれる。 不可視のそれは、一旦吐き出されると、勘で避けるしかない。 なら??。 『どうしたどうした!』 連続で繰り出される空気の弾丸。ぐるりと回り込んで、ヤツの空気弾を喰らわないように接近する。 僕は、基本的に銃などを使わない。 他人の命を奪うという事がどういうことかを、忘れない為に。 ガッと、滑り止めに使った右足が土を蹴立てる。 そのまま相手の首に、ナイフを突き刺そうと繰り出した時??。 『その程度カッ!』 クルリと、まるで梟のように百八十度近く首をめぐらせてこっちを振り向く。 「!!」 その真っ赤に光る眼光に射すくめられた瞬間、僕の意思に反して体が動きを止める。 ザシュッ! 「あぐっ……」 無造作に払った腕の一撃。その鋭い爪が、僕の胸を切り裂き、シャツを血で染める。 「まったく……中位の吸血鬼とは思えない力だ」 その腕の一撃で吹き飛ばされた僕は、そのまま流れに逆らわずに着地する。 思ったより傷が深いらしく、足に力が入らずにそのまま膝をついてしまう。 一瞬目が霞む。失血の方も深刻そうだ。 まったく、何なんだ……この力は。 吸血鬼などと一般的に呼ばれる生物は、人間の血を吸う代わりに傷口から呪を流し込む。これは蚊を思い浮かべてもらえると理解しやすいだろう。奴らに噛まれることの真の問題は、これなのだ。 奴らの呪いが全身を巡り、細胞が汚染されてしまうと、その被害者も吸血鬼の仲間入りである。 一度感染してしまうと、特殊な能力者にしか助ける事は出来ないし、それだって症状が進むとどうしようもない。 吸血鬼にはそのランクによって四種類に分かれる。 上位の〈ロード〉と呼ばれる吸血鬼は、それこそ人智を越えた力を持ち、何千年も生きている。 一説によると、人間よりも昔からこの世界に存在していた古代種族だとか言われているし、一種の宇宙人だと言う学者もいる。 全ての吸血鬼の元であり、僕達が真に倒すべき存在だ。 中位吸血鬼は、ロードに血を吸われた者が変化した状態を指す。 ロードの呪は非常に強く、適正の無い人間はそれだけで死んでしまう。 ロードには、本能的に適正者を見分ける事が出来るのだとか。 かなりの力を持っていて、普通の人間では相手にならない。 軍の一個大隊が、一匹の中位吸血鬼に壊滅させられた事もある。 今目の前にいる男も、中位吸血鬼の一人である。 ソイツらに噛まれた人間は、下位の吸血鬼となる。 その能力は人間時の数倍から十倍程度。 再生能力もそれほど大したことも無いし、特殊な能力もほとんどの者が持っていない。 だからといってただの人間が一対一で勝てる相手ではもちろん無いけれど。今の悠の状態がそれである。 下位の吸血鬼に噛まれた人間は〈スレイブ〉奴隷と呼ばれる。世代を経る事で呪も劣化し、まともに機能しなくなって、感染者は親の命令をこなす事しか出来ないゾンビみたいな状態になる。 何の意識も記憶も無い状態……一番哀れなんじゃないだろうか。 このぐらいになると、拳銃でも始末する事が出来る。あくまで、大口径の物を使用する事が前提だけど。一切の知覚を持たないヤツらは痛みを知らず、一定以上のダメージを与えるまで動き続ける。 相手をするときの注意が一つ。うっかり噛まれたりすると、自分もスレイブになってしまうので、なんとしても避ける事。それ以外の傷で感染する事は無いから。 ついでに僕達の事も説明しておこう。僕達??いわゆる人間外の力を持った者は、政府に保護されるか、人間を襲って政府に狙われるか、もしくは山奥なんかでこそこそ隠れて生きるかの三つ。 保護と言っても、結局ていのいい戦闘奴隷という気がしないでもないけれど、表面上の待遇は確かにいい。 特務部隊……それが僕達の配属される所であり、人間外の隊員は〈上位者〉と呼ばれて独立した任務を与えられる。 僕達と行動を共にする者が少なくないし、なにより根本的に能力が違うんだ。それぞれの能力に合わせて別々にやったほうが、よっぽど効率がいい。 政府がこの手の組織を初めて創ったのは、平安時代までさかのぼるという。 表には決して出てくる事の無い、陰陽師、修験者、法力僧、剣術者を抱え込んだ魑魅魍魎を討つ集団……。 もう千年以上もヒトと魔の戦いは続いてきたんだそうだ。 僕達のような者が隊に加わったのは、明治以降??特に戦後に入って人間の能力者の力が衰えてきてからだ。 今の隊員に中位以上の吸血鬼の相手をする事が出来るほどの者はいない。 というか、全員でかかっても無理だろう。彼等の力は、ほとんどただの人間と変わらないのだから。 それよりも逆に、奴らに力をつけさせるだけだ。 スレイブを除く吸血鬼は、血を介して対象の生命力を奪う事が出来る。 力を秘めた者は逆に、彼等の格好の餌でもあるのだ。 (要するに、自分達に戦う力が無くなったもんだから、手懐けた魔物を使って、魔物同士で殺し合いをさせようと……そういう事だね。僕自身はヤツらの事を、別に同族などと思った事は無いから気にもならないけど……どうなんだろうね? 他の仲間は。まぁ……聞いてみたって教えてなんかくれないだろうけど??) 3 そんな事を、ヤツの放つ空気弾を躱す為に絶えず動き回りながら考える。 見えないそれを安全に躱す為には、正面に立たなければいい。 技の性質上、真正面にしか飛んでこないのだから。 「あづっ!」 躱しそこねた空気弾が、わき腹をかすめていく。 さっきの爪の一撃による失血が、思ったよりも効いていたようだ。 体の反応が、少し鈍い。 いくら再生能力があるといっても??骨などの、ただ状態が変わっただけのケガならともかく??一度失った物を作り出すのは、そう簡単な事ではない。 血液や水分、肉体の欠損などがそうだ。 足元にあった拳大の石を蹴り上げる。 正確にヤツの顔目掛けて飛んでいったそれは、しかしあっさりと躱されてしまう。 もちろん攻撃が目的じゃない。コレを取り出すための隙を稼いだんだ。 「悪いけど、使わせてもらうよ」 取り出したのは、黒光りする短銃。特務部隊に支給される特別製の拳銃。 パァン! ヤツがこっちを振り向く前には、もう一発目を撃っている。弾は正確に、その眉間を貫く。 『ガアアアア!?』 ヤツが苦痛の叫びをあげる。 もちろん、ただの弾が込められているわけじゃない。中には、吸血鬼独特の細胞にのみ作用する特殊な薬液が詰まっている。 吸血鬼細胞を破壊し、溶かしてくれる。「人間にも硫酸ぐらいの効果はあるので、注意が必要」とのこと。 もちろん弾の大きさが大きさだから、そんなに大した量が入っているわけじゃない。 それに奴らの再生能力があるから、決定打とはなりえない。 中位以上のモノには、せいぜい足止め、牽制用にしかならない。 それでも、鉛玉よりはよっぽどマシである。 特務部隊の標準装備の一つ。 「ぐあっ!?」 もう一発。 動きが止まったヤツに、銃弾を撃ち込もうとしたその瞬間、肩が、まるで火でもついたかのように熱くなる。 流れる血、二本の牙の感触……。 なに? 誰か呼んでいるの? 誰を呼んでいるの? 誰を、誰を??。 「悠!」 「あ……隼人、君? それに、晃君も……」 気が付くと、私は木の陰で寝かされていた。ココは……私たちが毎日のように遊び場にしている 「大丈夫? いきなり木から落っこちるから、ビックリしたよ」 隼人君が心配そうに覗き込む。 「う、うん。まだちょっとクラクラしたりするけど……大丈夫」 「全く、気をつけろよな」 晃君はぶっきらぼうにそう言うけど、ホントはすっごく心配してくれたんだってちゃんと分かってる。 ……目が赤くなってるからね♪ 「あー、キレイな青空ーー♪」 ふと上を見上げてみると、真っ青な青空が広がっていた。 ふわふわした綿雲も。 「どしたんだ?」 「なんだよ、何が見えるんだ?」 二人も興味を引かれたみたいで、私と同じようにごろんと草原に仰向けに寝ころぶ。 「わぁ〜……」 二人は同時に感嘆の声をあげた。 だってこんなにキレイな空なんて、生まれて初めてだもの。 今まで気にした事なんて無かったけど、空ってホントに青かったんだ……。 「おい。あの雲、隼人に似てねぇ?」 「え、なになに?」 そう言われてみると……確かに似てるかも。なんとなくだけど。 「あっ、ほら! あっちは晃君そっくり」 「ほんとだ、似てる似てる」 隼人君も笑ってる。だって、晃君が拗(す)ねた時にそっくりなんだもの。ふふ。 「そー言うお前は、あれだな」 「え? どこどこ?」 そうやって言われた方を見てみると??。 「え〜? なにアレ。私あんなにほっぺた膨(ふく)らんでないわよぉ」 失礼しちゃうなぁ。女の子をからかうなんて。 まったく、晃君ったら、いっつもああなんだから。もうちょっと隼人君みたいに優しくしないと、女の子にもてないよ。 「なに言ってんだよ。ホラ、オマエが前に肉まん二個いっぺんにほおばった時。あの時のオマエの顔にそっくりだぜ」 うっ……そういえば、確かにそんな事もあったわね。 やだなぁ、隼人君まで笑ってる。恥ずかしいなぁ、もう。 「あーー……。それにしても、こんなにのんびりしたのは、ずいぶん久しぶりだぜ」 「なんだよ晃。いっつものんびりしてるじゃないか」 たしかに。晃君は勉強そっちのけで遊ぶ事ばっかり。 まぁ、子供ってそういうものだと思うけど。 「だから、遊ぶのに忙しいんだって」 「ぷっ、あはは。もう、晃君ったら」 隼人君も笑い、つられて晃君自身も笑い出す。 本当に楽しい、夏の日の思い出だった。 なにを……今さらこんな物を見せて、一体どうしようというの? 何の為に??。 真っ暗な空間、闇の中でそこだけ明るく光る場所。 中には、幼い頃の私たちの笑い声。 私はそれを、離れた所から……ただ見ているだけ。 近付こうとしても足は動かないし、目をそむけようとしても、瞼一つ動かす事はできない。 (あの頃に戻りたいとは思ったけど、あの一番楽しかった頃をこんな風に見せ付けられたいなんて思ってない! これじゃ、あんまり惨めじゃない……) もう決して帰らないものを、まざまざと見せ付けられる。 せめて……あの夢の中の登場人物として、何も気付かずにいられたら、まだ幸せだったのに。 そんな中、どこからか私の名前を呼ぶ声が聞えてくる。 どこからか??そう、本当にどこから聞えてくるのか、見当もつかない。近いようで、遠い……そんな、不思議な声。 誰が、誰を呼んでいるの? 一体誰を??私? 私を呼んでいるの? あなたは誰? あなたは……あなたは??。 4 「悠!?」 振り返った僕が見たのは、ニッコリと……邪悪な笑みを浮かべる悠の顔。 それは、まるで前にいる男のような??夜の顔。 『フフ。あっま〜い♪』 『ねぇ、ご主人様ぁ。このコの血、すっごくおいしいですよぉ』 そのランランと輝く瞳に、理性の色は無い。 完全に正気を失っている??? 「お前、まさか!?」 『ああ、その通りさぁ。ムリヤリ進行を早めてやったんだ。もう、自分の意思は残っちゃいねぇ。俺の思うがままに動く人形だ』 キレてる。心底闇に染まった者の、歪んだ感情。 見ちゃいられない。せめて、その息の根を止めてやる。 そしてそれをやるのは、僕の仕事だ。 誰にも……やらせない。 『キャッ!?』 ワザと隙を見せ、噛み付いてきたところを背後に回りこんで、首の後ろを手刀で打つ。 普通なら気絶する一撃でも、今の彼女には効果が無い。 たとえ気を失ったって、アイツが強制的に気付かせるからだ。だけど……。 『ハ、ゥゥ……』 一瞬の隙を突いて彼女に打ち込んだのは、対魔性用の秘薬。 特殊な鉱石を溶かした水に、特務部隊の術者全員分の念が込められた聖水。 中位の吸血鬼相手でも十分程度、一切の行動を封じることが出来る〈奥の手〉。 下位の吸血鬼なら、一日は目覚めることが無い。 『ちっ、やってくれるじゃねぇか……』 悠が自分の念でも目覚めないと知って、凄絶な笑みを浮かべる。かなり頭にきているようだが……。 「それはこっちだって同じだよ。なんで、そんな事をした……分かってるはずだろ!?」 一度完全に支配下に落としてしまえば、もう二度と自分の意思を取り戻す事は無い。 悠のことが好きだった??いや、間違いなく今でも??ヤツがやるにはあまりにも矛盾した行為。 だけど、そんな僕を晃は嗤(わら)う。 『やっぱりお前は、俺達とは違う。人間そのままの考え方だな』 そうなんだろうか? 自分では、もうずいぶん変わってしまったと思っていたのだけれど。 『俺達の愛し方は、人間のそれとは根本的に違うんだよ。それに、この状態は、好きなヤツの〈全て〉を手に入れたのと同じだと思わないか?』 『まぁ、お前なんかに分かってもらおうなどとは思わねぇがな』 そう言って、また空気弾を飛ばしてくる。 他の攻撃はないのか、馬鹿の一つ覚えみたいに。 なんて強がってみても、やつのその攻撃が強力であるのは確かで、未だにいい破り方を思いつかない。 (ちょっと、ヤバイかな? でも、必ず〈救って〉やる……) さっきと同じように、回り込んで常に正面を向かないようにしながら接近する。 今度は、相手の動きを止める為に適度に銃を撃ちながら。 芸が無いと言われればそれまでだけど、僕はこれが一番いい近付き方だと思っている。 もっとも、僕は戦闘訓練なんて受けた事がないから、ただ単に思いつかないだけかもしれないけど。 『甘いってんだよ。コイツが躱せるか!?』 今までと違い、大きく口を開いて、奇妙な音を出す。 次の瞬間、僕の体は激しい衝撃を受け、体のあちこちが裂けて血が噴き出した。 「超音波……」 コウモリなんかが出すモノとは根本的に違うけど、波紋のように広がって襲い来るそれは??。 『一種の振動波だ。効果範囲がデカイから、そうそう躱せるモンじゃねぇ。威力のほうも中々だろうが?』 確かに。 再び派手に血を流して、少し目が霞んだりしている。これ以上の出血は、行動不能に陥りかねない。 もって後二発……。 『どうした、動きが鈍っているじゃねぇか。そろそろ……終わりにするか?』 なんだ? てっきり、嬉々として止めを刺しに来ると思ったのに……ただ喋っているだけだ。 ……時間、稼ぎ? (連射は、出来ないのか? 溜めに時間がかかるのか、消耗が激しいのかは分からないけど……) 「確かに、コイツで終わりにしてやる!」 言いつつ三発ヤツの顔面に向けて撃った後、無造作に銃を放り捨てて走り出す。 弾切れ。 下手に持ち歩くと危険な弾なので、予備は持っていない。 残った装備は、ナイフ一本に少量のガソリン……。それに、ライター。 『ちいい!』 ヤツは、超音波を放って弾丸を撃ち落す。 それはまっすぐ僕の方に向かってくるけれど、いまさら進路を変えられない。覚悟を決めてそのまま突っ走る! 「……え?」 思ったよりもずっと、衝撃は少なかった。 ほんの薄く、皮膚が切れた程度。 これは…………。 (遠くなるほどに効果範囲が広くなる。そして、広がっただけ密度が薄くなる……。つまり、至近距離でないと効果が薄いのか!) 気付くと同時に、更にスピードをあげる。 そういうことなら、何も問題は無い。 この距離からヤツがまともにダメージを与えられるのは、せいぜい一発が限界。 そして、その程度なら、十分耐えられる。 勝った! その時、確かに僕はそう思った。 しかし、それはちょっと甘い考えだったようだ。 『確かにコイツには弱点があるがなぁ……こういう攻撃もあるんだぜぇ!!』 そう言ってヤツは自分の左腕を切り飛ばす。 そしてヤツに撃ち出されたそれは、勢いよく僕の左腕に突き刺さった……。 「がっ……はっ…………」 ギリギリで心臓への直撃は避けたけど、それでもいくらか傷付けてしまったみたいだ。 傷口をヤツの腕が塞いでるせいで、逆流した血はみんな、口から溢れ出す。 衝撃と血で、呼吸も出来ない……。 『痛いか? 俺もだぜぇ。ハッハッハァ!』 そう可笑しそうに言って、ヤツは僕の右足首を掴んで軽々と持ち上げる。 バケモノだけあって、異常な力である。 「がああっ!?」 ヤツはそのまま僕の足首を握り潰すと、そのまま地面に激しく叩きつける。 何度も、何度も。 『ヒャヒャヒャヒャッヒャア〜!! しね、しねっ、しにやがれえぇ〜!!』 ヤツの狂ったような声が遠くで聞える……。 マズイ、このままじゃ??。 5 『っあ……?』 『ゲギャ、ゲヤアアアア!!』 うっ! 突然苦しみだしたヤツは、僕を放してうずくまる。 いきなり地面に落とされて、一瞬息が止まったけど……それよりも、何が起こっているんだ? 「……これ、は?」 何とか片足で立ち上がる。 もちろんその前に胸に刺さった腕は抜いている。 ギリギリ、本当にギリギリだった。もう少しで再生能力の限界を超えるところだった。 と言っても、より時間がかかるようになるということで、死んだりするわけではないのだけれど。 ……僕には〈死〉が無いから。 僕の体は、傷に応じて加速度的に再生能力が上がる。 傷口全て??つまり、体のいたる所??からシュウシュウと蒸気が上がっている。 ほんの少し間に何とか動けるまで回復した僕は、ゆっくりとヤツに近付く。 ヤツの背中の一点に、銀色の??近くで目を凝らさないと分からないほど細い銀の針が突き刺さっている。 それは、月の光を受けてキラキラと光っていた。 生物にはツボがあり、一点を押さえられただけで体が麻痺したりするらしい。 そして、僕はこんな事をするヤツを一人だけ知っていた。 僕の相棒である。 おおかた、一人で出かけた僕の後をつけて来たのだろう。僕の気持ちを尊重して、ただ見ているつもりだったけど、僕が危なくなったから思わず手を出した??そんな所か。 一人でカタをつけたかったっていうのは本音だけど、あのままだと本気で危なかったので、素直に感謝しておく。 『ガ、アア……』 「……悪い」 晃の呪力によって銀の針が消えた瞬間、僕は躊躇なく晃の頸椎にナイフを突き立てる。盆の窪といったっけ。ここは、〈親〉からの呪力が流れる所、その中心点である。 此処を破壊する事で、感染者の意識と肉体は一時的にヒトであった時に戻る。 「一時的に」と言ったのは……それがあくまで一時的な処置であるからだ。 一定の時間呪力が流れないと、感染者は発狂、凶暴化する。 その結果、一切の理性が無くなるわけだが、その分ソイツの〈力〉は劇的に高まる。 僕がそんな事をしたのは、あえて危険を侵しても、彼に聞き出すことがあったから。 もともと、そのために会いに来たようなものだった。 『ぐ……お、おれは……』 「気が付いたか、晃」 『はや、と……か』 感情が人間のそれに戻っても、今までやった事を忘れるわけではない。 何をやってきたのか、残らず覚えている……本人には耐えられない事だろう。 しかし、それでも??。 『ああ、分かってる。あの女のことだな』 晃の中でどんな葛藤があったのか分からない。 しかし、その口から出てきたのは、冷静ともいえる言葉。 一番危険なパターンだ。 『実を言うと俺自身、あの後会ったことは無い。直接聞えてくる〈声〉が、無意識のうちに俺を動かしていたんだ。半ば、ヤツに操られていたと言ってもいいかもしれない……』 罪悪感に、押しつぶされる寸前の、一瞬の平静。 静かな、感情の起伏の無い声は続く。 『悠の事について、言い訳はしない。きっかけがなんであれ、そう思ってたのは事実だ。それさえなければ、あの女の誘いに乗ることも無かったろうがな』 『つっ! もう、限界のようだ。最後に一つ……俺の手を握ってくれないか?』 「…………」 何をするつもりか分からなかったが、素直に右手を差し出す。 すると、晃は両手でぎゅっと握りしめてきた。 「っ!?」 熱い? いや、違う。もの凄く冷たいんだ……一瞬熱いと錯覚するほどに。 それに??赤? 『伝わったようだな……。それが、あの女「穢れた赤」だ。後は、その感覚が教えてくれるだろうさ。俺の時みたいに……な』 ぞっと、背筋が凍るほどの悪寒。 分かってはいたけれど、これほどのヤツには今まで一度も遭ったことが無い。 それくらいに、全身が危険だと叫んでいる。 『グ、ウウウ……ガッアアアア!』 突然、晃が苦しみだす。 タイムリミット、ということか。 『は、やくゥウウウ……』 「ああ……。分かったよ……」 懐から取り出した瓶の口をあけ、中身を晃の全身に降りかける。 ライターの火を付け、放る。 オイルライターの火は、そう消えることは無い。こういう時の、必需品だ……。 ボッ……。 という、やけに小さな音を立てて火が付いたかと思うと、あっという間に全身に炎が回っていく。 肉の焼けるニオイ、はぜる音、踊る炎。 激しい、赤、赤、赤??。 僕は、人間じゃない。 だから、親友をこの手で殺す事に何のためらいも、罪悪感も??無い……。 そう、そんな事を気にかけてちゃ、いけないんだ……。 僕は所詮、ヒトとは違うのだから。 なぜだか、今の僕の顔は、何の表情も浮かんでいない気がした。 必死に感情を押し殺している……奥に沈めて、表だけは何でも無いふりで??。 いつか、心の涙も流れなくなる日が来るだろう。 殺すべき相手に情を移すようじゃ、ハンター失格だから、ね。 そして、それでいいんだ。きっと、きっと……。 『お前のように〈誘惑〉を振り切る心の強さがあったら??と、思うよ……』 炎の中に消えていく晃は、確かにそう言った。 僕が強かったんじゃない。お前が弱かったんじゃない。 そう、言いたかったけれど、それだけは言っちゃいけない気がして、僕はじっと黙って親友の最後を見つめていた……。 6 「なんだ、もう終わっちゃったの?」 いつの間に近くに来たのか、相棒であるレイシャが自慢の銀髪を風になびかせながら、そう声をかけてくる。 もちろん、今まで覗いてた事は言わないし、こっちもわざわざ尋ねたりしない。まぁ、そういうものだろう。 「レイシャ・アレイシス」彼女ももちろん〈上位者〉である。それも、とびきりの。 上位者としては例外的に、特務部隊の面々??特に男の隊員に人気がある。 (美人である事は認めるけど、気は強いし意地悪だし……なんでそんなに人気あるのか、よく分からないな) 「どうしたの? じ〜っと見つめたりして。ハハ〜ン、おねぇさんに惚れたわね。でも、ダメよ。私はみんなのアイドルなんだから」 「……いいから」 「ウフッ」と、ポーズを決める彼女に頭を抱える。レイシャに言わせると〈セクシー〉じゃなくて〈チャーミング〉なんだそうだけど……どう見ても悩殺ポーズだ。 根本的にズレている??のではなく、分かっててワザとやっているのだ……頭いてぇ。 「で、こっちの いつの間に動いたのか、悠の傍にしゃがみこんで彼女の顔を覗き込んでいる。 「そうだよ。何とか……治せないか?」 自分でもダメだろうと思いながら、そう尋ねる。 いくら初めて血を吸ったばかりとはいえ、感染からもう何日も経っている。 それに加えて、最後にやられた強制支配によって、細胞の汚染は一気に進んでいる。 いくら彼女の〈力〉でも、助ける事は無理だろう?? 「……ムリ、ね。アンタの頼みだから、可能性が1%でもあればやってみるけど」 レイシャが、僕を哀れむ目で見る。 彼女のそんなマトモな表情は、冗談でやっているとき以外めったに見る事はなく??それだけに彼女が本当に僕の事を心配してくれてたんだと、少しばかりビックリする。 今まで、ただの相棒だとばっかり思っていたから。 そして、向こうもそう思っていると思い込んでいたから。 「大事なヒト……うらやましいわね。アンタにそんなふうに思われてるなんて」 まるでヒトを冷血人間みたいに言う。失礼なヤツだ。 確かに、そう思われる事は少なくないけど……それは単に、他人に関わって自分が傷付くのが嫌なだけだ。 だから、あの時から一度も会っていない幼なじみに対して、昔の僕みたく接するのは……ただ単に僕が、本当はとっくに失ってしまったモノがまだ胸の中にあるように錯覚したいだけ??。 「泣いてる? ゴメン、力不足で」 彼女が素直にそんな事を言うのはとっても珍しく、だからこそ僕はそんなに酷い表情をしていたのか……そう思って顔に手を当てると、頬を伝う温かい流れに触れる。 もうとっくに無くしたハズの??涙。 「何でもない。こんなの、ただの水じゃないか」 訳もなくそう強がって、まだ目を覚まさない幼なじみの所へと近付いていく。 ヤツに砕かれた右足も、派手に引き裂かれた胸も、もうほとんど影響無いほどに治っている。 所詮僕は人間じゃない。だから、人間らしい感情なんか持ってちゃいけないんだ。 そう自分に言い聞かせて、ゆっくりと歩く。 「細胞の汚染が、許容範囲を超えちゃってるから……治してもスグに、拒絶反応で死ぬわね」 僕が悲しんでるのを見るのは嫌みたいだが、人間の死自体には何の関心もない。 そういう声で、淡々と話す。 「それでも、どうせならヒトの姿で死なせてあげるべきだよ」 そう言って、額に意識を集中させる。 次第に額の中心が熱を持つ。 今鏡を見れば、その部分が淡く光ってるのが分かるだろう。その熱を、右手の甲にゆっくりと移していく。 これには、ちょっとしたコツが必要だ。 光の珠が、正中線を通って首の下、鎖骨の中央??窪みの所まで流れてくるのをイメージする。 そこから、肩を、腕を通って手の甲に。 「準備はイイ? それじゃ、やるわよ」 光が確かに僕の右手に移ったのを見て、彼女がその抜き手を悠の首に突き刺す。 心霊療法というのがあるように、その手は彼女の望むものしか傷付けない。今は、彼女を蝕む、吸血鬼の呪。 「成功、よ」 レイシャが離れてすぐに、僕は右手の腹の部分を、悠の額に押し当てる。 優しく、ゆっくりと。 僕の手に宿った光は、手の平から悠の額、脳へと伝わっていく。 マトモな細胞が、吸血鬼の呪に侵された細胞と接触する事で起こる、拒絶反応。 ビクビクと震えていた悠の体が、僕の力がしっかりと染み渡ることで収まっていく。 僕のもう一つの力は〈夢〉を見させる事。僕の望んだ夢を。 ハッキリ言って、なんの役に立つのか、今でも疑問に思うことがある。 どんな夢を見せるのか考えて、それを形にするには時間がかかるから、例えば戦闘時に相手に使って意識を失わせる……何てことは出来ないし、しょせん夢を見せるだけだから、覚めてしまえばほとんど記憶に残ってはいない。 それならレイシャの〈力〉のほうが、よっぽど役に立つ。 ただ……僕の見せた夢を見て、嬉しそうに微笑みながら息を引き取った彼女を見ていると、この力も、そんなに悪いモノじゃないんじゃないかって……ほんのちょっとだけ思ったんだ。 「ねぇ」 さっきからレイシャがしつこい。 何でも、あの時僕が悠に見せた〈夢〉の内容が、どうしても気になるんだそうだ。 「ねぇってば」 その気持ちは、確かに分からないものでもないのだけれど、だからといって彼女に話すような事じゃない。 だから、イラついたレイシャが僕の背中をつついてきたり、踵をコンコン蹴飛ばしてきたって、じっと黙って歩き続ける。 どんな夢を見せたのか? もちろん決まってる。 僕達三人が、まだ本当に笑いあっていられた頃??。 それ以外、思いつかない。 「何とか言いなさいよ」 それにしても、ヒトの体をつねったり、くすぐったりするのはヤメテ欲しい。 見た目と違って、やたらと精神年齢の低いヤツだ。 まぁ、彼女にも色々あるんだろうケド??そうだな……。 僕と彼女が、相棒なんていうのよりもっと仲良くなったら、その時は教えてやる事にしよう。 もし、そんな時が来る事があれば、だけど。 とにかく、見上げた空は本当に青くて、僕はほんの少しだけ、救われたんだ。 メニューへ トップへ |