倦みて果てしその後に [承前] 起句 「アタシは、見逃してくれるんだろう?」 何を勘違いしたのか、媚びた、下品な笑みを浮かべてくる。 「……単に、この中で貴女が最も不味そうだっただけ」 穢れきった魂は悪臭を放っている。食欲をそそられることなどあろうはずの無い、酷いもの。 「貴女ごときを幾万喰らおうとも満たされはしないけれど……」 「そうね、退屈しのぎには――なるかしら」 人の身を纏った、人ではありえない美を宿した女の爪が肌に食い込み、その牙が、肉を食い破った [演場] 定句 片田舎のとある街。ちょっとした高台にある高校に、一人の女が棲みついた。 時は初秋。冬の風はまだ遠く、夏の熱気が冷めぬ頃。 見る者が見れば分るだろう、門より内を覆う白い糸。巣に絡めとられた、餌のようなそのすがた。 そこは、”学校”という閉ざされた空間にあって、なお異界。 そこにいる者すべては、自身でもそれと知らず、巣の主に捧げられた贄となっていたのだった……。 [女郎花] 艶句 「お入りなさい」 ……姉様の声が、扉の向こうから聞こえる。 わたしは、少し躊躇い、戸を開ける。 「これ……」 中は、一面の白。透るような雪白の糸。部屋を被って、中央には大きな糸の束が柱となって、床から天井まで。 支えるように、幾筋も糸の束が、壁や天井と繭柱をつないでいる。 「ここが、私の”巣”よ」 「巣……?」 「ええ。ここでちからを蓄えて、傷を癒すの」 姉様が悪戯げな笑みを浮かべ、ゆっくりと近づいて――わたしの頬に、そっとそのしなやかな手を当てる。 「あなたの――もらうわね?」 「あの……」 気だるい、だけど、嫌な感じじゃなくて――確かな幸福感。 「可愛いわね」 「あっ、や、やっ……」 髪をそっと梳くように、撫でられる。 姉様の顔が近くにあって、あ――さっきはもっと近くだったけど、そんな余裕は無かったっていうか――ああ、なに言ってるんだろう。 「ふふ」 顔を真っ赤に染めてるだろうわたしを見て、面白そうに笑う。 「さ、そろそろ帰りなさい」 「え――?」 「残念だけど、少し用があるの。また来なさい?」 「あ……はい」 すこし残念。このまま、朝まで一緒にいられると思っていたのに。 「”ここ”は、ひとが近づかないように術をかけているのだけれど、あなたなら大丈夫」 「私か、この場所に強いおもいを持つ者。あるいは、誤魔化されないだけのちからを持つ者だけが、来ることが出来るの」 「あなたのおもいは、弱くはないでしょう?」 くすくすと。からかうように。 ちょっといじわる。姉様なら、嫌じゃないけど。 「いつ来てもいいけれど――」 「私が呼んだときは、必ず来ること。来るなと言ったときは、それを守ること」 「いいわね?」 「あっ、はい」 「それでは、またね」 [遠園] 「いい天気ですね」 「――私には、少し日差しが強すぎるけれど」 ここ数日、昼休みを共に過ごすようになっている。 場所は主に中庭の端にあるベンチで、時に気まぐれに。 瑞香は、ひとのような食事は摂らない。というより、養分とならないために、意味が無い。 それでもこうして、少女に付き合う。 ひとつは、断られれば泣き出しそうな顔で、それでも誘ってきたこと。もう一つは。 「ただの気まぐれ」 少女の、あの日どうして助けてくれたのかという問いへの答えと一緒に。 少女が襲われていた。より正確に言うならば、嬲られていた。 夜の九時頃だったか。門から入って西の脇にある、古びた小屋――今は使われていない倉庫。 数人の男と、その様を悠然と見下ろす少女。そして、贄であるまゆり。 此処を巣と決めた理由の一つがそれ。門の外からでも感じるほどの、まゆりの声無きこえ。 結果、まゆりのその声を汲む形で、男達と、それを指揮していた女を喰らった。 そのまま学校を囲むように外的排除の結界を張り、内側をまやかしで満たし、何食わぬ顔で転校生として入り込む。 ――後日、再び顔をあわせることになったまゆりに懐かれてしまったのは、瑞香にとっても少々意外な出来事だったのだが。 深羽(みわ)まゆりという少女を一言で表すと”小動物”だ。 華奢で小柄、可愛らしい顔立ち。 肩甲骨辺りまでの髪を、三つ編みお下げに。髪はほんの少し茶がかっているが、これは地毛らしい。 内気な性格も「暗い」というよりは「小動物」といった方が合っている。 校内で孤立している様子なのと、あの日――実際には習慣的に――嬲られていたこと。 あるいは何か関係があるのかもしれない。その辺りのことについては、瑞香にとって何の興味も無いが。 「さて、そろそろ午後の授業でなくて?」 「あっ、そうですね。……姉様は、どうするんですか?」 少々名残惜しそうに。窺うような上目遣いがそそられる。 「屋上で雲でも見ているわ」 別に学生として入り込んでいるからといって、しっかりと授業に出る必然性など、どこにも無い。 出ていても、ほとんど片肘ついて居眠りをしているだけなのだから、ぶらぶら出歩くほうがまだ有意義ともいえる。 「そうなんですか? あ、それじゃ行きますね」 「ええ。お勉強、頑張りなさい?」 フェンス越しに風を受ける。なんとはなしに大きく伸びをしてみたりする。 この高校には、東西南にそれぞれ校舎が有り、瑞香が巣を張ったのは、校門より最も離れた東校舎一階。 ちょうどこの四階下だ。 東校舎は近年の少子化と、それに伴う生徒減少のあおりを受けて、ほとんど全ての教室が使われていない。 ただ、ここを抜ければ、裏側の運動場――テニスコートや野球用のグラウンドが近いため、通り道とする運動部員は少なくない。 「少し、余分にちからを使うことになったけれど、上々かしら」 この校舎は、構造上入り口が二階となっている。運動場には、一階を通ったほうが早いが、そのまま二階からでも行ける。 瑞香は、軽いまやかしをかけ、一階に近づく気をなくす――そもそも、あるということすら失念させている。 「気まぐれ……ね」 先ほどの言葉。 助けることにしたのは、その通り。だが、最初に目に留めたのは、止まったのはなぜか。 「さて……ね。忘れてしまったわ」 「――いい風。人の住む世界は変わっても、そこに吹く風は変わらないのね」 鉄と混凝土(コンクリィト)で造られた校舎。灯りは電灯というものに替わっている。 そこにこうして立っている瑞香は、古く、忘れ去られていくものか。 それとも――変わらぬ風か。 「詮の無いこと」 それだけ呟いて、今しばらくの風に身を任すのだった。 (姉様……今日は呼んでくれるかな?) 一方、授業に出ているものの、あまり身の入っていないまゆり。 元々成績は良い方で、こうやっていてもさして影響が無いというのは、一種の才能か。 ともあれ、最近の彼女の思考は、ただ一人に占められている。 鈴坂瑞香。 丁寧に梳かれ、枝毛など一本も無いだろう、腰までの濡れ羽色の髪。 すらりとした長身に、見る者が圧倒される、整いすぎた和風の顔立ち。 ゆったりとした、穏やかで上品な物腰と口調。わずかに低い、しっとりと染むような声音。 さすがに人目のある所で「姉様」などと呼ばせはしないが、二人並んでいれば、そう見えても仕方ない。 仲のいい姉妹、飼い主と子犬、あるいはそのものズバリの不適切な関係。 (姉様、そういうことは全然気にしないよね。むしろ――) 面白がりそう。というのは、あながち間違っていない気がする。 まゆり自身、そう見られても、あまりどうということもない。 体面しか考えていない父親。勝手な噂を立て、勝手に忌避する生徒達。 そんなものよりずっと、彼女は近くにいてくれる。 彼女にとってはただの気まぐれでもいい。 今は、時々でもこっちを見てくれるだけで。 それでも、いつか――。 「ほんとうに傍に、一緒にいられるようになるのかな」 なんて、淡い夢を。 [幕間 いつか] 古句 「お前は、花のようだな」 「あら」 いつも無口で、間違ってもそんなことを言いそうに無い男が。 女はそれが可笑しくて、少々意地悪をする。 「ふふふっ。花と言っても、色々ございますよ?」 「……すまんな、そういうことにはどうも疎い」 「いえいえ。ちょっとからかってみただけです♪」 「それに、あなたのそういうところ、私好きですから」 「そんなに悲しそうな顔をしないでください」 「悲しそうな……顔など」 「ふふ、何年一緒に居るとお思いです? それぐらい、見ればわかります」 既に見るちからすら無いというに、そんなことを言う。 こっちが辛くなるほどの、沈痛な気配。隠したがっているようだが、その努力は全く意味を成していない。 「……」 「もう、本当に、不器用なんですから……」 「物事には、みんな終わりがあるんです。私のいのちにも」 「――それでも、ずっと、幸せだったんです」 後悔なんて、していない。 だから。 そんなに、自分を責めないで。 「……様。兄様」 『――瑞香、か』 「大丈夫ですか? 魘されていたようですけど――」 『古い夢だ』 「…………」 「……あ、ほら、雨も上がったんですよ? 少し外へ出ましょう?」 ゆっくりと体を起こす男に、努めて明るく。 聞いても答えの無いことは承知しているので、そのまま気晴らしへと誘う。 梅雨の中休み。珍しく陽が顔をのぞかせている朝、少女が男を近くの草原まで連れてくる。 『ほう……咲いたか』 「ええ、今朝方」 少女が植え、丹念に世話をした笹百合が咲いている。淡い桃色が多く、稀に純白。 そのほのかな香りは、嗅ぐ者を満ち足りた気持ちにさせる。 『まこと酔狂よな。そのようなもの、態々育てずとも少し足を伸ばせば見つかろうに』 「いいえ。こうやっているのも、中々楽しいものですよ」 「それに、自分で世話をしたものが咲くと、本当に嬉しいですし」 この花は比較的栽培が難しい。手間と気を遣う分だけに、それが報われた時の喜びもまた、ひとしお。 『花……か』 『ふむ、悪くはないな』 「ええ、そうでしょうっ!」 ぽつりと呟いたその表情(かお)。 かすかに楽しげな色を浮かべた男に、少女は満面の笑みを浮かべる。 本当に――甲斐があった。 [古夢] 神であろうと、あやかしであろうと、自分たちの手に負えぬものを、神として崇める。 その山に住み着いた蜘蛛は、ひとを喰らうだけのモノだった。 村は、年に一人、若い娘を人身御供として差し出すことにした。 くだらぬ迷信に過ぎないが、それでもそれを愉しんだ蜘蛛は、与えられた玩具で自身を満たした。 ある年、一人の娘が、山を登る途中襲われた。神に捧げるものを穢してはならない。 そんな禁を破り、幾人もの男達が、幼い娘を蹂躙する。 その仲には、実の父と兄も。 最中(さなか)、娘は自分を遠く見下ろしている”もの”に気付く。 興味深げにしているのは、供物を受けに降りてきた蜘蛛の化生。 娘の声なきこえに蜘蛛が頷き、その時よりその村は、この世から消えた。 (ん……) 夢を、見ていたらしい。思い出すことも困難なほどの昔。 なにを、いまさら……。 「づっ……!」 「……姉、様?」 不意な左腕の疼きに苦痛の声を上げた時、傍らで眠っていたまゆりが目を覚ます。 「っ!?」 何気なくこちらを見た少女が、軽く息を飲み、目を見開く。 この程度のことで変化が解けるほどに弱っていたのか、その腕は、元の姿に――。 黒地に黄の、毒々しい色。幾分硬質的なそれに、獲物を裂くための長大な手指。 あまつさえ、少し濁った緑の体液が傷口から滴っている。 (ま……仕方ないわね) こんなものを間近で見て、嫌悪を催すのは無理もない。慣れているといえば慣れているけれど――。 「姉様、怪我をしてるんですか!?」 「――」 虚を、つかれた。まゆりは、悲壮な、ただただこちらを心配しているだけで。 「あ、あのっ、えっと……包帯とか、何か――」 「くすっ。大丈夫、そんなに慌てなくても」 あまりの慌てように、なんだか可笑しくなってしまった。 「ちょっと疼いただけ。放っておいても大したことはないわ」 「――それより、気味が悪いでしょう?」 「そんな、そんなこと思いません!」 「姉様のからだが、気味悪いなんて、そんなことあるはずが――」 「あ、いえ、そうじゃなくって……」 自嘲気味に笑って見せるわたしに、少女は憤然と否定し、その最中に何を思ったか、顔を染めてうつむいてしまう。 「ふふ、ありがとう」 「それでは、もう一眠りしましょうか。まだ朝は遠いわ」 「隣に居てくれるかしら?」 「……あ、は、はいっ!」 顔どころか、全身を染める勢いで。そうして、あたふたと寄り添ってくる。 「おやすみなさいね、まゆり」 「はい、お休みなさい……姉様」 [幕間 跳梁] 『ようやっと六割といったところか』 僧形の男が一人、通る者もない夜の街を歩いている。 笠から零れる、僅かに蒼みがかった長い銀髪。近づくだけで分る、独特の気配。 気配を追い、ようやく辿り着いた。標的は、この街に。 半月ほど前の激戦を思い出し、その歩みがかすかに落ちる。 ――止めを刺す瞬前、その身に落ちたいかづち。 『くだらぬ、邪魔の入ったことよ』 本来であれば、その程度、何ほどのことも無い。 しかし、彼女との戦いで受けた幾つもの傷。 強く護られた外ではなく、脆い内を流れたがために。 『……とはいえ』 楽しみが延びたというだけのこと。このように焦らし、待たされるというのも悪くない。 それは、最後の時をより鮮やかに彩るだろう。 『く、くく……待ち遠しいわ』 これを恋慕というのなら、間違いなく。 あの、妖姫――蜘蛛の女を。 [執心] 「本当に面白い娘(こ)」 がらになく、思い出し笑いなどしてしまう。 昨日の放課後。 「精奴(せいど)……ですか?」 「そう。私につくり変えられた、肉人形」 「老いることもなく数十年の間、いのちを吸われ続けるだけのもの」 生気、生気……そして、肉体を含めた全て。それが瑞香にとっての”糧”であり、いのちと呼ばれるもの。 精奴という贄は、それを効率よく得るためのもの。 身ごと喰らえばより多く得られるが、所詮それは一時(いちどき)のものにすぎない。 自身で蓄えるだけでなく、他者からも奪うことが出来る精奴。 そうして、集めたそれを掠め取る主。 いわば鵜飼いのそれであり、一種の養殖ともいえる。 「姉様には、必要なんですよね……」 傷を癒し、遠からず訪れるたたかいの為に。 「でも、それでも、わたしは――」 「『嫌、なんです。姉様が、他の人に目を向けるの』か」 哀れなほどにひたむきなそれに、また気まぐれを起こした。 結局目をつけていた少女は見逃し、これからも、そんなことはしないと。 「甘い……かしらね」 まゆりの教室まで迎えに行ってやりながら。 彼女の願いを聞いたことか。今こうして彼女の所へわざわざ足を運んでいることか。 おそらく両方ともが。 それでも、不思議に悪い気はしなかった。 「まぁ、私は気まぐれだから」 そんな風に、可笑しげに呟きながら。 [幕間 饗夜] 通りから外れた人気の無い路に、OL風の女が倒れている。 顔は上気し、息は荒い。意識は無いようで、その肢体に幾本かの蒼みがかった銀の糸が絡んでいる。 僧のなりをした男は、その様を暫し眺めた後、何も無かったかのように無造作に立ち去る。 放っておいても、朝が来れば誰か通りかかるだろう。 ――もっとも、それまでに何かあったとしても、この男の知ったことではない。 目的を果たした後のものに興味など欠片もない。 そのまま歩みを続け、ふと、懐かしげに呟く。 『しかし、また面白いところを選んだものよ』 ここは、彼女と出会い、そして、始めにやりあった地。 因縁といえば、これほど縁の深い場所もないだろう。 『終りが再び此処というのも……』 『儂の傷が癒えた時が宴の始まりよ』 低く、暗く。嗤い声が、夜へ溶けていった。 [暇隙夜話] 「ねぇ、姉様……」 「なにかしら?」 瑞香の柔らかなからだにゆったりと凭れかかり、まどろむ。 まゆりにとって、一番安らげるとき。 瑞香もまんざらではない様子で。 ふたり、穏やかに時の流れるのを眺めている。 「姉様って、ここに傷を癒すためにいるんですよね」 「そう。宿敵……ともいえる相手と争ってね」 「いまのすがたでは見えないけれど、幾つもの大きな傷が残っているわ」 「傷が治ってしまえば――」 「出て行く、わね。あくまでも、ここは仮宿にすぎないのだから」 今度こそ終わりにするために。 傷を治し、ちからをつけ、あれを仕留める。 「その時……」 「ええ。あなたがそうしたいのなら、ついて来てもかまわないわ」 「あなたはどうするのかしら? 私と、一緒に来たい?」 彼女が望む答えを返す。 嘘というわけではない。瑞香にとってはとるに足らないことだが、それでも――全てが終わったとき。 自分がまだ生きていたならば。 (そういうのも、悪くはないかしらね) 「あ……はい!」 途端に満面の笑みを浮かべる少女。 親、友人……取り巻く世界から隔絶し、されている彼女には、この瑞香という妖姫だけしかいない。 今までは何もなかった。けれど、今はたった一つだけの、とても大切なものが。 だからこそ、失う懼れはより強く。 「…………」 まゆりの様子は、何かを思い出しそうになる。 とおいむかしの――なにか、大事だったかもしれないものを。 しかし、それはいつものように打ち切られる。 このときは、当のまゆりによって。 「そうだ、沖縄――」 「? ……ああ」 昼間熱心に見ていた、南の島を切り取り、描いた一冊の本。競うように並べられた、写真と絵画。 どれもが惹きつけられるものだった。一度も触れたことの無い世界が、いかにもそこにあるかのような。 「行ってみませんか? いつか」 「そうね。いけるといいわね」 「いつか」 [幕間 吾亦紅] 「南……ですか? 沖縄なら、前に一度行ったことがありますけど」 「そう」 惹かれている。遠く、南の島を描いた画を見ているその横顔に。 鈴坂瑞香という、その存在に。 気まぐれで、悪戯好きで、優しくて、あたたかくて。 はじめて見た時からずっと。 少女にとって「姉様」だけが全て。 彼女と一緒に居られるのなら、他に欲しいものはない。 (姉様、自分のことはあまり話してくれないけれど……) もっと知りたい。彼女のいろいろなことを。 「いつか……」 「?」 一緒に歩けるのだろうか。色々なところを。肩を並べて。 |