蒼幻 〜糸の綾〜 [飛落] 僅かに星だけが照らす校庭に、一人の少女が降ってくる。 屋上から一切の力なく、ただ風と重力を受けて、落ちてくる。 少女のその虚ろな表情は、事故でも、他者によるものでもなく――。 「……私の目に付く所で、命を投げ捨てるようなことはやめてもらえないかしら」 地面に激突し、美しくもおぞましい紅い華を咲かせる瞬前。 現れた一人の女によって受け止められる。 いかなる魔術を用いたのか、勢いを殺し、衝撃を無くし。 ふわりと、受け止められる。 「無駄にするくらいなら、私が貰ってしまうから」 気分悪げにそう呟くと、黒髪の美女は意識を失ったままの少女を抱いて、校舎へと消えていった。 [演場] 片田舎のとある街。ちょっとした高台にある高校に、一人の女が棲みついた。 時は初秋。冬の風はまだ遠く、夏の熱気が冷めぬ頃。 見る者が見れば分るだろう、門より内を覆う白い糸。巣に絡めとられた、餌のようなそのすがた。 そこは、”学校”という閉ざされた空間にあって、なお異界。 そこにいる者すべては、自身でもそれと知らず、巣の主に捧げられた贄となっていたのだった……。 [糸飾] 「ん……」 「あら、目が覚めたかしら?」 「……あの、ここは――?」 気がつくと、思っても見ない景色。それに、覗き込んでいる女の人。 すごく綺麗な長い黒髪に、紅く見えるような不思議な瞳。一度見たら忘れられないような美人で、もちろん見覚えなんて無い。 慌てて周りを見渡すと、どこかの教室のよう。だけど、椅子や机は全然無くて、殺風景。 私が寝かされていたのは、固い床じゃなくて、ふわりとした優しい手触りの、繭みたいな白い布の上。 見たことの無い景色と女の人。 頭の中が混乱して、何がなんだか……。 「何があったか知らないけれど、命は無駄に捨てるためのものではないわ」 「っ!」 彼女の冷ややかな声に、意識が覚醒する。 そう。なら、目の前の彼女が――。 「どうして、わたしを助けたんですか?」 「さぁ。ただ気に入らなかったから、かしらね」 「え?」 「私はね、無意味に死にたがるものが嫌いなの」 「っ! なにも……」 「なにも、知らないくせにっ!!」 この人は、なんておせっかいなんだろう。 あのまま放っておいてくれれば良かったのに。他の人みたいに、見て見ない振りしてくれれば、それだけでよかったのに。 「興味もないわ。どうせ、つまらないことだから」 「!!」 「ただの逃避。嫌なことから目を背けることなどに、一つきりの命を使おうなんてね」 冷ややかに、軽蔑するように。 わたしがどれだけ苦しんでいるか、いたかも知らないで、そんな勝手なことを言う。 「――んむっ!?」 「なっ、何をするんですか!?」 そのまま、ゆっくりと近づいてきて。唇が重ねられて、内(なか)を吸われた。 あまりのことに、軽く朦朧とする。 「悪くないわ。あなたの精気」 そんな風に、艶やかに笑う。 「ついでと言ってはなんだけれど、その心も貰ってあげる」 そうして有無を言わせず。 ゆっくりと、わたしを押し倒してきた。 力を入れられているわけでもないのに、まるで糸に絡められた蝶のように。 そのまま、彼女のなすがままに。 「……な、なんなんですかっ」 「あら。良くなかったかしら?」 「い、いえ――って、そうじゃなくて。お、女どうして、なんて」 余裕たっぷりの彼女に、翻弄される。 って、どうしてこんなことになったのか。 まぁ確かに、あの時と違って、嫌だということは全然、無かったんだけど。 ……え、え? ちょっと、自分でも感情の整理がついていないと思う。 そんな風に慌てる私を笑って見ながら、彼女は紡ぐ。私を捉えるための、綺麗な、冷たい――甘い糸を。 「くすっ。ほら、大したことは無いでしょう?」 「汚された。などと言っても、所詮その程度のこと。体の傷で、心まで傷つくのではないの」 「心の傷をつくるのは、あくまで自分自身」 「!?」 知って――る? 「妹が、ね。そんな目をしていたから」 だから、一目でわかったと。そう、なんとなく哀しげに。 「だから……なんですか?」 おそらく、助けられなかったその人と。 あの時のわたしを重ねて。 「かもしれないし、そうではないかもしれない」 「だけど、手放すつもりはないわ」 「もう――ね」 そうして艶然と、すこし悪戯げに。 彼女の指が、そっとわたしの頬に添えられる。 「あなたが捨てるというから、私がもらった」 「だから、勝手に死ぬなんて許さないわよ? いいわね?」 そっちこそ、なんて勝手なんだろう。 それでも、彼女の真剣さが伝わってくる。 『”死ぬ気になれば”なんてよく言いますけど、死んじゃう方がずっと簡単なんです』 『だから、辛くても、悲しくても――頑張って生きないと。自分に負けちゃうなんて、一番情けないんですから』 昔、ひとりだけ、そんな風に叱ってくれた人がいる。 いっぱいの人の中で、たったひとり。わたしを見てくれたひと。 ――やり方は全然違うけれど、それだけは同じで。 すこしだけ。もう少しだけ頑張ってみようかなんて、そんな気になった。 [女郎花] 一面の白。透るような雪白の糸。部屋を被って、中央には大きな糸の束が柱となって、床から天井まで。 支えるように、幾筋も糸の束が、壁や天井と繭柱をつないでいる。 この前寝かされていた布は、この糸から出来たものだったのかな。 目の前の光景に驚いて立ち止まったわたしに、彼女はゆっくりと笑みを浮かべる。 「よく来たわね。これが、私の”巣”よ」 「巣……?」 「ええ。ここでちからを蓄えて、傷を癒すの」 姉様が悪戯げな笑みを浮かべ、ゆっくりと近づいて――わたしの頬に、そっとそのしなやかな手を当てる。 「あなたの――もらうわね?」 「あの……」 気だるい、だけど、嫌な感じじゃなくて――確かな幸福感。 「可愛いわね」 「あっ、や、やっ……」 髪をそっと梳くように、撫でられる。 姉様の顔が近くにあって、あ――さっきはもっと近くだったけど、そんな余裕は無かったっていうか――ああ、なに言ってるんだろう。 「ふふ」 顔を真っ赤に染めてるだろうわたしを見て、面白そうに笑う。 「そっ、それにしても、本当に」 「? ああ」 視線の先をなぞり、その糸の群を見て。 「そう。私は蜘蛛のばけもの。言っておいたと思ったけれど」 「そう、なんですけど」 「――怖いかしら?」 「いっ、いえ」 そう、怖いというより、驚きの方が強いんだと思う。 今まで生きてきて、そんなものがいるなんて想像もしてなかったんだから。 それに、彼女――姉様が人だったなら、あの時私は助かっていなかったんだろうし。 よくて、二人とも大怪我。 危害を加えないどころか、助けてくれるひと。それだけが重要なことで。 だから、本当に。 「どうする? そろそろ家へ帰るのかしら?」 「いえ。あの……朝まで一緒にいて、いいですか?」 「ええ。こっちへいらっしゃい」 そんなのは、ほんとに些細なこと。 [遠園] 「いい天気ですね」 「――私には、少し日差しが強すぎるけれど」 ここ数日、昼休みを共に過ごすようになっている。 場所は主に中庭の端にあるベンチで、時に気まぐれに。 人でない瑞香にとって、食事とは必要なものではない。少なくとも、人の食べるものが養分となることはない。 それでもこうして、少女に付き合う。 ひとつは、断られれば泣き出しそうな顔で、それでも誘ってきたこと。もう一つは。 「ただの気まぐれ」 少女の、あの日どうして拾ったのかという問いの答えと共に。 実際。拾ったのがそうなら、そもそも出会いからして”気まぐれ”に。 次の――おそらくは最後の戦いになるだろう、それに備え、傷を癒すための仮宿。 その場所にこの学校を選んだのもそうなら、降ってきた彼女を救ったのも。 そして――柄にも無い説教などをしてしまったのも。 陰湿な虐めを受けていたらしい彼女を囲ってから数日。 ようやく打ち解けてきたという時に。 件のグループ――男四人に、扇動役の女一人――が、今度はこちらを標的としてきたらしく、校舎裏まで呼び出された。 自分の所有物に手を出すのを許すほど寛容ではない瑞香は、そのまま全員を”始末”した。 面倒が無いように、跡も残さず喰い尽した。 目の前の少女に問われるまま、ありのままを語った後。余計に懐いてきたのは、瑞香にとっても、少々意外なことだったが。 瑞香は、手に入れたものをじっと眺める。 深羽(みわ)まゆりという少女を一言で表すと”小動物”だ。 華奢で小柄、可愛らしい顔立ち。 肩甲骨辺りまでの髪を、三つ編みお下げに。髪はほんの少し茶がかっているが、これは地毛らしい。 内気な性格も「暗い」というよりは「小動物」といった方が合っている。 はじめに会った時の様子は影も無い。気が昂っていただけなのか、それとも――あれが地だったのだろうか。 校内で孤立している様子なのと、今は無い五人による、ずっと続いていたらしい”いじめ”。 その二つは、あるいは何か関係があるのかもしれない。その辺りのことについては、瑞香にとって何の興味も無いが。 「さて、そろそろ午後の授業でなくて?」 「あっ、そうですね。……姉様は、どうするんですか?」 少々名残惜しそうに。窺うような上目遣いがそそられる。 「屋上で雲でも見ているわ」 学生として入り込んでいるからといって、しっかりと授業に出る必然性など、どこにも無い。 出ていても、ほとんど片肘ついて居眠りをしているだけなのだから、ぶらぶら出歩くほうがまだ有意義ともいえる。 「そうなんですか? あ、それじゃ行きますね」 「ええ。お勉強、頑張りなさい?」 全身に風を受ける。なんとはなしに大きく伸びをしてみたりする。 この高校には、東西南にそれぞれ校舎が有り、瑞香が巣を張ったのは、校門より最も離れた東校舎一階。 ちょうどこの四階下だ。 東校舎は近年の少子化と、それに伴う生徒減少のあおりを受けて、ほとんど全ての教室が使われていない。 訪れる者すらほとんど無い、瑞香にとっては最良といえる環境。 「気まぐれ……ね」 先ほどの言葉。 助けることにしたのは、その通り。だが、最初に目に留めたのは、止まったのはなぜか。 「さて……ね。忘れてしまったわ」 「――いい風。人の住む世界は変わっても、そこに吹く風は変わらないのね」 廻(めぐ)る風は、その土地の”におい”と、季節を運ぶ。ずっと変わらない――これからもそうあるだろう営み。 ゆっくりと周囲を見回す。 鉄と混凝土(コンクリィト)で造られた校舎。灯りは電灯というものに替わっている。 そこにこうして立っている瑞香は、古く、忘れ去られていくものか。 それとも――変わらぬ風か。 「詮の無いこと」 それだけ呟いて、今しばらくの風に身を任すのだった。 (姉様……今日は呼んでくれるかな?) 一方、授業に出ているものの、あまり身の入っていないまゆり。 元々成績は良い方で、こうやっていてもさして影響が無いというのは、一種の才能か。 ともあれ、最近の彼女の思考は、ただ一人に占められている。 鈴坂瑞香。 丁寧に梳かれ、枝毛など一本も無いだろう、腰までの濡れ羽色の髪。 すらりとした長身に、見る者が圧倒される、整いすぎた和風の顔立ち。 ゆったりとした、穏やかで上品な物腰と口調。わずかに低い、しっとりと染むような声音。 さすがに人目のある所で「姉様」などと呼ばせはしないが、二人並んでいれば、そう見えても仕方ない。 仲のいい姉妹、飼い主と子犬……あるいは、そのものズバリの不適切な関係。 (姉様、そういうことは全然気にしないよね。むしろ――) 面白がりそう。というのは、あながち間違っていない気がする。 まゆり自身、そう見られても、あまりどうということもない。 体面しか考えていない父親。勝手な噂を立て、勝手に忌避する生徒達。 そんなものよりずっと、彼女は近くにいてくれる。 彼女にとってはただの気まぐれでもいい。 今は、時々でもこっちを見てくれるだけで。 それでも、いつか――。 「ほんとうに傍に、一緒にいられるようになるのかな」 なんて、淡い夢を。 [幕間 跳梁] 『ようやっと六割といったところか』 男が一人、通る者もない夜の街を歩いている。 月影に零れる、僅かに蒼みがかった長い銀髪。近づくだけで分る、独特の気配。 目に付くのは、その髪だけ。 特徴が無いことこそが特徴というような容貌のなかで、ただひとつ目に留まるもの。 気配を追い、ようやく辿り着いた。標的は、この街に。 半月ほど前の激戦を思い出し、その歩みがかすかに落ちる。 ――決着の瞬前、その身に落ちたいかづち。 天秤の傾きが分らぬままに、中断を余儀なくされた。 『くだらぬ、邪魔の入ったことよ』 本来支障ともなり得ないそれは、彼女から受けた幾つもの傷によって出来た”隙間”を通り。 それ以上続けられぬほどのものとなった。 『……とはいえ』 楽しみが延びたというだけのこと。このように焦らし、待たされるというのも悪くない。 全ての傷が癒え、新しい右腕が使えるようになるまでの半月ばかり。 長い”おあずけ”は、最後の時をより鮮やかに彩るだろう。 『く、くく……待ち遠しいわ』 これを恋慕というのなら、間違いなく。 あの、妖姫――蜘蛛の女を。 |