[朱宴] 屋上。今にも降り出しそうな天(そら)が、物憂げに校舎を包んでいる。 『何故、変化を解かぬ?』 僧形の男が悠然と佇んでいる。退屈と疑念を浮かべて。 視線の先には、制服姿の少女。衣服は所々裂け、左腕の傷口からは、濁った緑の体液が流れている。 「……」 『その姿のままでは、勝ち味が無いことなど骨身に沁みていように』 「……確かに、ね」 彼我の実力差は歴然としている。 「貴方が人型で、私が本来の姿。それでも」 それでも、一割二割。 『今まで何度となく争うたが、全て変化を解いていた。此度はどのような趣向かな?』 「――ただ気が乗らないだけ」 言って、傷口を押さえていた右手を突き出す。 『ふむ。つまらぬことよ』 束となりて放たれる粘糸を、無造作に錫杖で打ち払う。 自身の肢一本を材料に、神気(かむけ)を注いで練り上げた杖。蜘蛛としての娘である瑞香の糸を、触れるだけで蒸発させていく。 『結和那』 言って、滑るように左に流れる。 「……っ!!」 風切り音を纏いながら、五本。後ろに控えていた巫女が矢継ぎ早に矢を撃ち出す。 「邪魔を――するなっ!」 大きく一歩退き、癇癪交じりの声と共に、振り上げた右手を地に叩きつけるごとく振り下ろす。 弧を描き、怒涛と降る糸。人一人をゆうに飲み込む規模のそれが、地の力を借りて矢を押し潰す。 「づっ!」 速射。顔色一つ、瞬き一つなしに矢を放つ。 捌ききれず躱しきれず、脇腹をかすめ飛ぶ。 『そら』 轟、颶風と化した錫杖が瑞香を襲う。 右上腕部より逆袈裟。 受ければ、腕どころか胴ごと砕かれるその一撃を、体を捻りつつ飛び退き躱す。 「どういうつもり!?」 更に上。縁(へり)に糸をかけ、駆け上る。 中央には避雷針。ここが、この学校で最も高い場所である。 『どう、とは?』 共に、追いかけてはこない。僧――アラツチは余裕から。彼の操り人形である巫女――結和那は、元々自分の意思で動くことはない。 「彼女は貴方の娘でしょう!? 今更何を!!」 『ふむ……?』 『戯れにつくったものに過ぎぬ。駒として使うに、何の呵責が要る?』 遥か昔、山から下りて神社の娘に産ませたもの。その血を継ぐ結和那。 『あるいは、主のように蜘蛛と変えてみるも一興だったやもしれぬが、な』 侮蔑を含んだ、意地の悪い笑みを浮かべる。 「っ!!」 『ははは! 自ら「蜘蛛と変えてくれ」などと言ってきたお前が、何を憤る?』 放たれた幾筋もの鋼糸を、難なく捌く。 「――黙りなさいっ!!」 上方から下方へ。豪雨の如きそれを、軽く飛び退いて躱す。 『その程度ではワシは捕らえられぬぞ? 何を遠慮することがある。いつかのように殺めぬか』 いっそう嘲りの色を深める。 脇に控えている女が邪魔だ。巻き込むことを気にしていては、絶対に勝てない。 ――それでも、操られているだけの人間を殺す気にはなれない。 (なにを……) 甘い、どころではない。自分で自分の感情が理解できない。 彼女を自分と重ねているのか。それとも――捨ててきた温もりが、まだ惜しいのか。 棄てられた。そう、感じた。 自身を蜘蛛と変えてから二百と三十年。常に寄り添っていた男は、山里の神社にて子を生(な)した。 『ただの戯れよ』 そう言われようと、それを信じることなど出来ない。 女としての本能か、蜘蛛の、人よりも優れた感覚か。 それより年に一度。山を降り、その神社へ通うようになった。 ――決定的にしたのは、瑞香だった。確かに情を傾ける男に耐えられず、社へ赴き、殺し尽くした。 嫉妬という暗い焔を燃やした時、兄とも慕った男との関係が終わった。 以来三百余年。 互いを狩らんとし、幾度となく争った。 原初の感情など既に無く、ただ「殺すため」だけの争い。 『永く生きてきて、此れ程に愉しめることは無かった』 『ただ一つ我を脅(おびや)かすもの。唯一、我を殺すことが敵うもの』 生死をかけたそれすらも、遊びに過ぎないと。 「いい加減――!!」 その御託をやめろと、下に飛び降りる。 途中壁を蹴り、勢いつけてアラツチへと飛び込む。 「……!」 主を守るように移動した結和那が、すぐさま射止めんと矢を放つ。 構うことなく左腕――黒と黄の、異形と化した腕でもって打ち落とす。 一本、二本。 落としきれず突き刺さるのを無視し。 「っ!!」 全霊で右腕を振るう。 防がんとする錫杖を斜めに断ち切り、そのまま――。 翻り、下から掬い上げる錫杖を腹に打ち込まれ、弾き飛ばされる。 「……がっ、はっ」 吐き出される濁緑の液。 『故に無念。幕引きがこのようにつまらぬものとはな』 [幕間 絆] 「姉、様……」 ただ泣いて、悲しむだけは、もうやめた。 止めたい。 けれど、わたしには止められなかったし、もう遅い。 だけど、だからせめて。 「怒られるかも。本当に、嫌われてしまうかも」 それでも、傍に居たい。 どんな結果になるとしても、たとえ――この目で、姉様の最後を見ることになっても。 「うぅん、それだけは、絶対にいや」 姉様の強さはよく知ってる。だけど、あんなに傷ついてた。 こうしてここで立っているだけで、どうしようもなく不安になる。 嫌な予感だけが、全身を責めたてる。 この体を使っても……盾にすらなれるとも思わないけど。 姉様がわたしのことを想うように、わたしも、姉様のことを。姉様のことだけを。 「わたしはどうなってもいい。だけど、姉様が死ぬのはいや」 それだけ。 屋上へと、駆け出す。何も出来なくても、何もせずに待っているだけは、もういや。 精一杯、足を動かす。おわりが来てしまう前に。 姉様のところへ。 [暁闇] 「――ええい、うっとおしい!!」 矢を射んとするを糸で絡め、そのまま背に回りこむ。 結和那の背中。その中央に取り付き、八本の肢を肉に打ち込んでいる子蜘蛛を引き剥がし、そのまま握り潰す。 蜘蛛の死により、穴から入り込み、主の支配を流し込んでいた糸も解けて消える。 「…………」 ふらり、と糸の切れた操(く)り人形は冷たい床へ倒れ落ちる。 『ククッ! 何をつまらぬことをやっておる。そのまま引き裂いてしまえば早かろうに』 「っ……」 睨み付けるも、それすらも微風(そよかぜ)よと流される。 呑まれている。 『ふむ。では――』 杖を捨て、奔る。振るわれる爪を交わし、すり抜けると共にその手を掴み、握り潰す。 そのまま空いている右手を瑞香の腹に突き刺し――。 腸(はらわた)を千切り、潰し、引き摺り出す。 「がぁあああっ!!」 『いい声で鳴きおる』 返り血で体を濃緑に染め、狂悦の笑みを浮かべる。 そのまま顎を掴み、倒れている結和那へと向ける。 『喰らえ。さもなくば、遠からず死ぬぞ?』 「……生憎だけど、そんなつもりは、毛頭無いわ」 いかにばけものとはいえ、ここまでやられればやがて死に至る。 それでも、ひと一人を喰らえば生きながらえられるというなら、やはりそれが化生たる所以か。 『実に……』 つまらぬ、と。 あくまでも自分を殺すために貪欲であったはずの女を前に、退屈げに吐き捨てた。 [幕間 道程] 共にありて二百年。 別れてより三百年。 憎しみを持続させるのは難しい。 なれば、それはそのような単一の感情ではないのだろう。 彼ほどではないにせよ、彼女もまた、倦いていた。 かわらぬときをつづけることに それは。 そう……ただ、それだけのはなし。 [散華] 「姉様っ!?」 開け放されたままの扉から駆け込んできた少女が、瑞香に向かい悲痛な叫びを上げる。 「まゆり!? 帰りなさいと、言ったはずでしょ!!」 「いいえ! 姉様を置いてどこかへ行くなんて、できません!!」 『姉様、と』 『これはまた……』 「! アラツチ、彼女は取るに足らない、ただの人間よ!」 『お前が人を気にかけるか。』 「――なにをっ!!」 『なに、只の座興よ』 言って、その右手を異形へと変える。節の無い蒼銀の腕に、爪としても使える、長大で強靭な手指。 「待ちなさい!!」 その声を嘲うように振り返り、糸を吹く。両足に両の腕も包まれ、動かすことも出来なくされる。 手を伸ばせば届く距離。すぐ傍にいるのに、かなわない。 その絶望こそ、男の味合わせたいもの。 『娘。お前の主の代わりに、少々愉しませてもらうぞ』 『腑抜けたのがお前のせいならば――台無しにした責は負ってもらおう』 「っ!!」 「やめなさい!!」 もがくも解けることなどなく。 見せ付けるようにゆっくりと振り上げられ……。 「アラツチぃいいい!!」 「姉、様……」 紅い、華が咲いた――。 [まゆり] それが先日の少女だと、最初から気付いていた。 というより、話しかけようとするのだが、その勇気が出なくてといった様子までがよく分る。 話しかけやすいように人目の無いところまで行って、初めて振り返る。 「なにかしら?」 「……あ、あの」 「――どういう、ことなんですか!?」 「どう、とは?」 艶然と笑む瑞香に少々たじろぎながらも疑問をぶつけてくる。 そして、それをさらに面白げに返す妖姫。 「き、昨日のあれ、てっきり夢だと――」 「でも、今日来たら確かにいなくなっていて。かわりにあなたが」 「それで、みんな、あなたのことを知っていて……転校生だって」 「ふふ」 「ちょっと、まやかしをかけたのよ」 「まや、かし?」 「そう」 聞きなれない単語。目の前で笑みを浮かべている美女もあって、思考が上手く働かず、理解に時間がかかる。 結局纏まらず、そのままそれを目の前の女に尋ねる。 「あ、あなたは――?」 「昨日、見たでしょう?」 「ばけもの、よ」 「!?」 「それで、用はなぁに?」 「つまらない、正義感でも持ち出してきたのかしら?」 「……そ、そんなんじゃないです」 「……」 瑞香は、じっと、少女を見ている。特に何の色も浮かんでいない、その紅い瞳で。 数瞬後、少女の口から出た言葉は、瑞香にとって少し意外なもの。 「……あの、ありがとう、ございました」 「……」 「あいつら、私のことを――」 「無理やり、なんども……なんども」 「いつも、いつも、あんな奴ら死ねばいい、殺してやりたいって……」 「では、満足かしら?」 「えっ?」 「ばけものの糸に絡めとられ、身動きも出来ず。恐怖におののいたまま、生きたまま喰われてしまった、彼らの最後が」 「相応しい、残酷な最後――かしらね?」 「あ……はい」 「ふふっ」 その、静かな頷きを受け、初めて、かすかに愉しそうに笑む。 「そう。では、ね」 「えっ?」 「見逃してあげる。だから、たとえ此処で見かけても、お互いに関わらない」 見ない、見えない。居ないものとしろ。 それが、彼女が生を許される、只一つの条件だと、そう声に無く告げて。 「あ、あのっ!」 だが、彼女は自ら踏み出す。留まる最後の機会を、捨てる。 立ち去ろうとしていた女は、ゆっくりと振り返る。 「まだ、なにか?」 「……時々でいいんです。あの、お話、させてもらっていいですか?」 人の世界と、彼女――化生の世界の境を、越える。 だけど、それをいうなら――彼女に初めて逢った瞬間、その艶に魅せられたとき、既に越えていたのかもしれない。 「先輩。あくまで私は部外者に過ぎないのだから、そう呼ばれるのは――」 「あ、なら……姉様、って呼んじゃだめですか?」 「姉様……ね」 「まぁ、あなたがそう呼びたいのなら、べつに構いはしないのだけれど」 「姉様と一緒にいられるのなら、他に何も――いりません」 「可愛らしいこと」 「だけど、気が変わったら、あなたも喰べてしまうかもしれないわよ?」 「……それでも、いいんです」 「――そう」 くすり、と。愛でるように。 「あの……」 「? 何を持っているのかしら?」 「あの、今夜は暖かいですし、裏庭で一緒にと思ってお茶とお菓子を作ってきたんですけど」 そこで、初めて気付いたらしく、顔を紅く染めてもじもじしていた娘は突然に俯いてしまう。 「?」 「……姉様、こういうの――食べません、よね」 (……ああ) 「くすっ」 「大丈夫よ。食べないというだけで、食べられないというわけではないから」 「私のために用意してくれたのでしょう?」 「あ……はいっ。それじゃ、行きましょう!」 「ふふ。今落ち込んだと思ったら。面白い娘(こ)ね」 「なぁに?」 「あの……わたし、嫌です」 「?」 「姉様が他の人に目を向けるのって、嫌です」 じっと、目を逸らさず見つめてくる。 説明を聞き、瑞香にとって必要なことだと知った上で、なお。 そのひたむきな瞳に、瑞香は――。 「いいわ。それでは、やめておきましょう」 「えっ?」 「どうしても、というわけではないのだから」 「そんな泣きそうな目で見られては……ね」 「あ……」 真っ赤になって慌てるまゆり。 それを見て、くすくすと笑う瑞香。 「あっ、姉様。なにか咲いてます」 「釣り鐘人参ね」 薄い青紫の釣鐘形の花。秋風に揺られている様は、かすかに鈴の音が聞こえて来そうな。 「昔は、春の山菜として大事にされたのよ」 「山でうまいはオケラにトトキ、嫁にやるのもおしござる」などという俗歌もあるほど。 山地の取って置きのご馳走――「とっておき」が訛ったものという説もある。 「へぇ〜、姉様、物知りなんですね」 「それはそうね。長生きしているから」 「――なるほど」 「まゆり? そこは頷いてもらうと困るのだけれど?」 「あっ、すいません」 「ふふふ」 「姉様!?」 まゆりが、駆けてくる。大きな、蜘蛛そのものとなっている自分の姿になんら躊躇することなく。 『っ……!』 躊躇う。彼女の前で人を裂くことを。彼女の前で、こんな醜い、忌まわしい姿をしていることを。 「……まゆり」 そのまま、人の姿に戻る。 冷静な行動とはいえない。肉体の強度、そもそもの生命力自体、格段に落ちる。 結和那に受けた矢傷は、蜘蛛のままならば軽傷だが、人型ではそうはいかない。 「姉様っ!!」 けれど、どうして晒せるだろう。あのような浅ましい姿を、この少女の前で。 「やめなさい、汚れるわよ」 「っ、そんなこと――」 傷口から垂れ流される濃緑の体液にも構わず、少女はすがり付いてくる。 「こんな、ひどい……怪我をして」 悲痛な声は、ただただ思い人を心配するだけで。一筋の嫌悪も、混じっていない。 目を向ければ、既に結和那の姿は無い。糸の縛を解き、恐らくは主が元へといったのだろう。 だが、それを追うよりも先にすることがある。 「いいからもう、帰りなさい」 「ここから先は、人が立ち入るものではないわ」 静かな、確かな拒絶。 「そんな!!」 自分のことを考えてということはわかる。だからこそ、悲しい。 「また……ひとりになるんですか?」 少女の前から、去っていく。最初は親で、そして――それからもずっと。 いろいろな人が、彼女を置いて、捨てていった。 また、今も……と。 それでも。そんな目をされても。 譲れないことがある。だから、精一杯の言葉をかける。 「……明日を迎えられたら」 「また遊んであげる。だから、聞き分けなさい」 「っ! いや、です。離れたくない!!」 「一緒に、外へ行くのもいい。姉様、言ったじゃないですか」 「そうね……」 「でも、けじめはつけなければね」 「……え?」 「前に聞いたでしょう? 私は、このときのために生きてきたのよ」 「迂回路は無いわ。どちらにせよ、前に進むしかない。退くというのは、私の全てを否定することだから」 「姉、様……」 「いいわね? ちゃんと帰るのよ。でなければ――愛想尽かしをするから」 「っ!!」 目を見開き、大粒の涙を零す少女。 まゆりの、そのすべてを振り切り、走る。 視線が、泣き声が、想いが……足を止めようと絡みつく。 無理やりに引きちぎり、前へ進む。 振り向けば折れる。立ち止まれば掴まる。 (まったく……らしくない) ただ一人の人間の少女が、なぜこうも気にかかるのだろう。 どこか重ね見ているのだろうか。 あの日の――。 (ばからしい) 今考えるべきこと――いや、そもそもそんなことを考えることこそ、どうかしている。 そんな自分を振り払うように、敵と、その人形の待つ屋上への扉を勢いよく開け放った……。 [穿] 『半瞬……。届かなんだな』 六本。結和那に折られた二本を除いた全て。黒と黄に彩られた肢が背から生え、アラツチを串刺す。 『いまだそれ程の余力を残していたことは驚いたがな』 それで、この後はどうする? 言外に、これで終わりかと問うている。 背から胴を突き抜けた肢の全てが、今の一撃が振り絞ったものであることを語っている。 終わりでなかったとしても、万一にも自分を滅(ころ)すことなど出来ないと確信している。 「……っ!!」 視線の先。ゆっくりと崩れ落ちるまゆり。 その血が降りかかり、倒れていた結和那がかすかに動く。 「結和那! 起きなさい!!」 すぐさま自分の肢とアラツチの体を糸でくくりつつ、叩きつける。 空を奔(はし)り、叩きつけられる、ちからを持った叫び。 「……鈴坂、さん?」 視線の先。貫かれた異形と、貫いた異形。 呪縛は解けている。背に取り付いた蜘蛛よりの、こころを犯す毒も、生来のものである浄化性と瑞香の声によって跡形も無い。 ゆっくりと明確になる視線の先。 社神(やしろがみ)と崇めていた”それ”は――。 「突き立てなさい! それは、あなたが思っているような神ではないわ。ただの、人を喰らうばけものよ」 瑞香の声が打つ。弾かれたように結和那は、傍らに転がっている錫杖――瑞香の爪に切られ、槍となったその先端を、背に突き立てる。 『っ! だが、この程度では――』 そのまま力を果たし、意識を失い、倒れる結和那。 深々と打ち込まれるも、それはけして致命傷などではない。糸を千切り、二人の”娘”を仕留めるなど、それほどのことでもない。 今まさにそれを始めようとする蜘蛛神。 そこへ。 ――さらに、もうひとつ |