[尽花]
『――――』
 雷鳴、地鳴り……天地(あめつち)の悲鳴の如き叫びを上げ、神とも呼ばれし一体の蜘蛛がのたうつ。
 深々と突きたてられた杖が避雷針となり、奇跡とも呼ぶべき僥倖。
 天より注いだ雷が、その身を内から灼く。
 数千年。
 その、気の遠くなるという言葉すら擦れ、風化する年月が、ゆっくりと崩れていく。
 最後に何を残すも無く、塵となり、この世から消えた。

「まゆり……っ?」
「あ……姉、様」
 駆け寄り、声をかけるも、既に悟る。
 助からない。
 アラツチの爪は、まゆりのいのちを、確実に切り裂いた。
 流れ出る血は、残酷なまでに紅く。
「しっかり、なさい……」
 言って、滑稽だなと自分でも思う。
 こんな風に取り乱すこと。無駄だとわかっていることを言うなんて。
「姉様……泣いて、いるの?」
 そんな筈はない。そんなもの、遠の昔に捨ててきた。
 そう見えたとしたら――
「雨よ。その雫が伝っただけ」
「でも、声が……」
 泣き出した空。泣き出しそうな声音。
 いつからだろう。
 本当にいつの間にか、自分の内を占めていた、ちっぽけな、人間の少女。
「……」
「……姉様」
「――なに?」
 ゆっくりと差し出される――その力すらもう無い、その手を握る。
「私を、食べてください」
「……」
「姉様、いつか言いましたよね?」

 だけど、気が変わったら、あなたも喰べてしまうかもしれないわよ?

「私は、もう一緒には行けないから……」

 だから、私を食べてください

「同じ助からないのなら、姉様と一つになって、一緒に――」
「まゆり……」
「私、姉様と一緒に、いたいです」
「…………」


[幕間 俤(おもかげ)]
 一つの物語が終わった。長く伸びたそれは、多くのものを狂わせ、残るものに痕を遺した。
 何を想い、何を見、何を成さんとしたのか。
 知ろうとも思わないし、思ったとて知ることの出来るものではない。
「生きていない。死んでいないというだけのものが、この世に存在する意味は無いのだから」
 思慕も、恨みも、憎しみも……全て消えた。
『全ては等閑事。前も、先も、現在(いま)も、全て――な』
 満ち月の光を浴びた横顔。どことなく淋しげに見えた。
 思いは遠く。
 落としてきたものは限りなく。
 それさえも見えなくなるほどに。


[最終章 鬼毒]
 夕焼け。沈みかける太陽が、校舎をその内部まで橙く(あか)染めている。
 先日の事件――事故により、下校時刻が早められ、既に残っている生徒はいない。
 教師すら、その役目を終えたかのように早々に立ち去っている。
 それは、一夜にして出来た、東校舎の無数の傷のせいではない。
 人払い。
 瑞香がかけた、学校全体を覆うそれによって。
「……」
 奇妙な感慨と共に、校内をゆっくりと歩いていく。
 一月。今まで生きていた時間からすれば、ほんの瞬きほどにすぎない。
 しかし、
 それも、もう与えられることはないだろう。
 少女は既に失く、誰も彼女に代わることなど出来ないのだから。
 いつの間にか、彼女との思い出が無い場所はなくなっていた。
「なにを……」
 再びあの教室に巣を張り、傷が癒えるまで眠るのもいいかもしれない。
 彼女の想い出を揺り籠に、子守唄に。
 傷が癒えるまで、ずっと。

「眠るのなら、永遠に」
「――いえ、安息も与えるつもりはありません」
 扉へ手をかけるを止める声。
 正装。戦衣装。
「昨日は夜。まさか、日のある内からそんな格好で来るなんてね」
 白衣緋袴。左手には朱塗りの半弓。
 五体には、みなぎる戦意――殺気。
「今まで、何人を殺めてきたんですか?」
「……貴女は、これまでの生で、いくつの命を奪ってきたのかしら?」
「…………」
 張り詰めた静寂の中、切りつけるような結和那の言葉を、柳よと受け流す。
 その余裕の態度に、結和那の態度がよりいっそう厳しくなる。その歯を噛む音が聞こえるほどに。
「ただ、摂取するものが違うにすぎない。生きるために必要なこと」
「そこに善悪を問うのは、間違っていると思わない?」
「――ええ。ですから、これは私怨です」
「私の友人を殺した、あなたへの」
「……受けましょう。たとえその身を切り裂かれたとしても、文句は言わないことね」
 ゆっくりと弓を構え、矢を番える。

「はっ!」
 裂帛の気合で打ち出される破魔の矢。
 十分な迅さをもったそれは、しかし瑞香がうち立てた円網に阻まれる。
 円網――代表的な蜘蛛の巣を、外敵を阻む壁の如く配置する。
 鏃が触れた瞬間、巣は食虫花のごとく畳まれ、矢に絡みつく。
 勢いを殺がれた矢は、変化を解いた瑞香の右手によって、難なく払われる。
「くっ!」
 二、三、四。次いで三矢を放つも、その尽くを絡め取られ、叩き落される。
「……以前とはまるで違いますね」
 昨日、蜘蛛神に操られていた時の記憶も残っている。あの時、そしてその前。放った矢は糸の奔流によって強引に落とされた。
 そして、今までの戦いを見た限りでは、こんな風に、待ちに徹するような性格ではない。

 狩り――遊びはともかく、戦いに関しては、瑞香は自ら攻め込むことを好む。
 蜘蛛の化生である瑞香にとって、糸を吐くという行為は、それこそ呼吸をするのと同じこと。
 それが、こうしているのは、単に半死半生であるというだけ。
 少々糸を吐いたところで死に至るようなものではないが、かといって無計画に使えるほどの余裕は無い。
「だからといって、ひとに滅ぼされるほど甘くはないわよ?」
「その言、飲み込まないよう気をつけなさい」
 さらに射る。やはり疾い。
 操られていた時ほどに無駄の無い所作ではないが、それでも十分に。
 最初に対した時よりも鋭いのは、視覚化できそうなほどの、焔の情か。
(嫉妬……かしらね)
 あの瞬間に、まゆりという存在は、永遠に瑞香のものになった。
 それが許せないというのが、最も大きな理由だろうか。
(ああ、なるほど)
 思わず苦笑する。何のことはない、これは結局ただの――。

 足を狙って放たれた糸を、機を合わせて跳躍し、やり過ごす。
「そう簡単にはいかないわよ?」
 そのまま前進。
 間合いを詰めて、一気に仕留める。この弦でなら、そのまま身を断つことも出来る。
 ――読んでいたというより、最初から誘導だったのだろう。
 間髪入れず、正面からの一束の糸。中空で解(ほど)け、鋼糸の散弾となる。
 全速に近い迅さであっただけに、とっさに飛び退くことも出来ず、そのまま弓で払う。
 払いきれず、幾つか刺し貫かれる。
 全て皮一枚程度だが、十分に役は果たした。
 その隙を突き、鋼糸を目くらましにした一束の粘糸が弓に巻きつき、溶かされつつも彼女の手からもぎ取る。
「させ――っ!」
 左手で懐から短刀を抜き出す。
 糸を切ろうとするより疾く、その手へ粘糸が飛ぶ。
 仕方なく、弓を捨て、こちらの糸を切る。
 切らされる。
「何か用意してきているとは思ったけれど……」
 守り刀などと言えば可愛らしいが、そんな甘いものではない。
 瑞香の糸を切り、肉を切ることが出来る、立派な武器だ。
 油断などしていれば、こっちの身が危ない。

 勢い良く引き寄せ、そのまま遥か後ろへ。
 瑞香の後ろ、廊下の端近く。
 少なくとも、この戦闘中に手にすることは出来ないだろう。
 取りに行くには彼女を倒す必要があり、倒せば必要の無いものだ。
(これ一本……)
 それと、もう一つ。
 それで、あのばけものを殪す。
 ――一瞬、熱が消える。
 熱くなり過ぎたための静寂か、思考、理性が戻る。
(私、なにを……)
 それも、すぐに熱に流される。
 先ほどまでよりも、強く強く。引き裂きたい。あの蜘蛛を。
「……?」
 対峙している瑞香にも、そうと感じられるほどの変化。
 明らかに異常と言っていいほどの鬼気。
 鬼女。そう呼んで差し支えないほどの。
「何が憑いているのかは知らないけれど」
 否。知っている。
 気付いている。
「祓ってあげるわ」
「感謝なさい? 私に、清めの真似事などさせるのだから」


[彼岸]
「あの……私」
「正気に戻ったかしら?」
「……すいません」
 彼の血を引くことが、彼の熱をうつしたのかもしれない。
 毒ではないが故に、その身で浄化もされず。
 そもそもは――想いが似通っていたため。その、望む結果こそ違えど。
「いいわ。それで、どうするの? 続きを、望むのかしら?」
「いえ、やめておきます」
「そう」
 聞かない。いくら聞いて欲しそうにしているからといって、其処までしてやる義理は無い。
「鈴坂さ――あなたは、これからどうするんですか?」
「そうね。此処に、間借りをしようかしら」
「私の、巣だから」
「そうですか」
 結和那も聞かない。聞かなくても分る。
 もうここには居ない、大事な人との思い出の場所だから。
 それが、瑞香の理由。
 彼女と過ごした場所で、彼女と――共に。
「お幸せに――なんて、変ですけど」
「ええ、それでは、ね」
「もう会うことも無いだろうけど」そう言って、彼女は巣へと消えていった。
 ……それが、少女の見た、その妖姫の最後。


[夢果 〜遠幻〜] 結句
 瑞香は眠っている。
 巣の教室。白い繭に包まれて。
 そうして傷が癒えるまでの永い間、夢をみる。

 暑い日差しの南の島。
 隣には一人の少女。
 どこまでも澄んだ蒼い空の下を、二人で歩く。
 そんなあわい、やわらかな夢を――。





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