[破界]
「っ!?」
 暇つぶしにと、教室で授業を受けてみたりなどしていた瑞香は、不意に走った衝撃に意識を覚醒させる。
(一角……崩された)
 敵の侵入を阻むために張った結界。四方、八方……要となる場所にちからを持ったものを置き、繋いで界と成すもの。
 残った力の大半を割き、十二方位に分身である子蜘蛛を置いた式陣。
「っ!」
 また、ひとつ。
 常人には見えることも触れることも出来ないそれを、確実に。
 慌てて意識を集中させる。結界内のことならば、余分に力を使いさえすれば、全て把握できる。
「結和那……?」
 髪を結い、白衣緋袴という、典型的な巫女装束に身を包んではいるものの、紛れも無くあの女に違いない。
(心変わりをしたというの?)
 人の心など、移ろいやすいもの。そういうこともあるかもしれない。
 けれど――なんとなく、違う気がする。
 そんな、単純なことではない。
 違和感の正体を確かめるために、より深く探る。遠目で見ていたような姿が、より近く詳細に。
 無表情で生気の無い瞳。同様に気配も虚ろ。
(糸……銀糸!?)
 普通では見えない、わずかに蒼い銀の糸。彼女の背面全てに、夥しい数の糸が繋がっている。
 遠く離れた場所の操者まで、繋がっている。
「そう。そういうこと」
「いいわ。今夜――日が落ちたら」
「ここで始めましょう。私たちの、終りを」
 瑞香はそう、ここに居る人形を通して、ここに居ない”もの”に、告げた。


[焦節]
 女郎蜘蛛と呼ばれるばけもの。
 身の丈七尺余。
 常種を単に巨大にしただけでなく、捕食者としてより貪欲な姿。
 金に光る八つの単眼。
 黒地に黄の八本の肢――両の手足は、一際大きな肢に。
 背甲は暗褐色の地を銀白の短毛が覆い、腹部背面は黒褐色の地に三条の黄帯が走る。

 結界が残っている以上、人である結和那を送り込むしかない。
 一人ずつ片付け、更には結和那を喰らうことで力を増すことも出来る、絶好の機会。
 なのに、この様だ。
 結界は破られ、宿敵の操る人形に思わぬ苦戦をさせられ、変化を解いて。
 否。解かされた、というのが正しいか。
 背から生やした肢の二本を失った。あのまま人型で戦い続けていれば、より深く傷を負っただろう。
 前座で消耗するわけにはいかない。
『主のところへ行きたいのでしょうけれど、そうはさせない』
 以前と同じく、巣の前の廊下で対峙する。主の方は、ここの最上階に陣取っているだろう。
 場所の方は瑞香も依存は無いが、この状況は、非常に不本意である。
 このまま二対一となれば、いつも通りの結果――結和那自身のちからと、蓄えのない瑞香のことを考えれば、むしろより悪くなるだろう。
『……まずは貴女を喰らいましょう』
 この形態ならば、先ほどの傷も大したことは無い。
 たっぷりとちからを秘めたこの巫女のいのちなら、補って余りある。
『逃げる暇は与えない』
『悪いけど、此処で終わってもらうわ』
 ただ操られているだけの女へ、さほどの哀れみもなく告げる。
 自身が生きるために他者を殺す。その答えは、果たして誰のものだったのか。

 容赦なく放った瑞香の糸が、今宵最後となるだろう、血の宴の合図となった。


[朱宴]
 屋上。今にも降り出しそうな天(そら)が、物憂げに校舎を包んでいる。
『何故、変化を解かぬ?』
 現れた姿そのままに、男が悠然と佇んでいる。退屈と疑念を浮かべて。
 視線の先には、制服姿の少女。衣服は所々裂け、左腕の傷口からは、濁った緑の体液が流れている。
「……」
『その姿のままでは、勝ち味が無いことなど理解っていように』
「……確かに、ね」
 彼我の実力はほぼ同等。
「ただし、お前が人形を遣うなら、こちらも本来の姿でなければならない」
『今まで何度となく争うたが、全て変化を解いていた。此度はどのような趣向かな?』
「――ただ気が乗らないだけ」
 言って、傷口を押さえていた右手を突き出す。
『ふむ。つまらぬことよ』
 束となりて放たれる鋼糸。飛び繰るそれに、うっすらとしか見えない銀の糸が絡みつき、千切り切る。
 そのまま、この宴場に撒かれた糸――その残りが、瑞香の体に絡みつき縛する。
 切り切りと、その表皮を、その内の肉を薄く、絞め切っていく。
『こうしてみると、蜘蛛糸に絡め取られた蝶のようだな』
 くっくく……。
 陰と嗤う。既に勝利を確信した故に。
「だから――」
 気付いては、いない。このからだで、なおも勝つ為に。
 策を編んでいることに。
 仕掛け糸。隠し糸。
 糸を放ち、操るのが相手の質ならば、紡ぐのが自分の質。
(果たせるかどうかは)
 それこそ運次第。永い付き合いで、相手の性格を少しは知っている。
 ”使う”気にさせられれば勝ちで、それが出来なければ負け。
 あの男が使う気になる状況は、即ちその次の一手に繋がる時でもあるのだから。
 ――手段は一つ。あの男は、この形態でも八本の義肢を生やせることを知らない。
 唯一見せたのは、先刻の結和那との争い。
 男は操り糸を通じて周囲の状況を知ることが出来る。
 とはいえ、傍に瑞香のような強大なものが居れば、乱されて仔細までは把握できないと、二度前の戦いで知っている。
 だからそれが、おそらく最後の手段。
 確実に、深くまで突き刺さねばならない。
『――永く生きてきて、此れ程に愉しめることは無かった』
『ただ一つ我を脅(おびや)かすもの。唯一、我を殺すことが敵うもの』
 生死をかけたそれすらも、遊びに過ぎないと。
 詠うように、聞かせるための独白は続く。
『故に無念。幕引きがこのようにつまらぬものとはな』


[幕間 絆]
「姉、様……」
 ただ泣いて、悲しむだけは、もうやめた。
 姉様を、止めたい。
 けれど、わたしには止められなかったし、もう遅い。
 だけど、だからせめて。
「怒られるかも。本当に、嫌われてしまうかも」
 それでも、傍に居たい。
 どんな結果になるとしても、たとえ――この目で、姉様の最後を見ることになっても。
「うぅん、それだけは、絶対にいや」

 こうしてここで立っているだけで、どうしようもなく不安になる。
 嫌な予感だけが、全身を責めたてる。

 この体を使っても……盾にすらなれるとも思わないけど。
 姉様がわたしのことを想うように、わたしも、姉様のことを。姉様のことだけを。
「わたしはどうなってもいい。だけど、姉様が死ぬのはいや」
 それだけ。
 屋上へと、駆け出す。何も出来なくても、何もせずに待っているだけは、もういや。
 精一杯、早く。終りが来てしまう前に。
 姉様のところへ。


[暁闇]
 愚にもつかない男の独白を切り払うように爪を振り、身を縛る糸を切る。
 滑るように、正面に巫女が現れる。
「――ええい、うっとおしい!!」
 矢を射んとするを糸で絡め、そのまま背に回りこむ。
 結和那の背面。無数――五十を軽く超える糸の群れを勢いよく切り裂く。
「…………」
 ふらり、と糸の切れた操(く)り人形は冷たい床へ倒れ落ちる。
『ククッ! 何をつまらぬことをやっておる。そのまま引き裂いてしまえば早かろうに』
『他者を気にするばかりに、その有様はどうだ? 無駄に傷を負う必要が何処にある?』
 男の糸は、用途によって幾つかの種類に分かれている。
 対象の意識を奪い、操る糸は最も脆い。常に十分な力を流していなければ、瑞香の爪の前にひとたまりも無い。 
 もちろん、そのように男の注意をそらすのは、けして容易なことではないのだが。
「っ……」
 睨み付けるも、それすらも微風(そよかぜ)よと流される。
 呑まれている。
『ふむ。では――』
 空手、得物を持たずして奔る。
 その右腕が、変形(へんぎょう)する。
 節の無い蒼銀の腕に、爪としても使える、長大で強靭な手指。
 つくりものでありながら、一個の生命体じみた異形。
 瑞香の爪を交わし、すり抜けると共にその手を掴み、握り潰す。
「づぅっ! 悪趣味……ね。なんのつもり?」
『なに。儂自身の肉ではお前を傷つけることが叶わぬからな』
 自分の腕を真似られた不快をあらわにする瑞香に、期待通りと笑うアラツチ。
「いつも人形を使い、自分ではろくに戦わないお前が。珍しいこと」
『ククッ、只の座興よ』
 瑞香の誤解。
 人形とは、何も他者だけを指すのではない。自分の体――いや、自分自身さえもとうにその対象。
 男はそのまま、異形の右手を瑞香の腹に突き刺し――。
 腸(はらわた)を千切り、潰し、引き摺り出す。
「がぁあああっ!!」
『いい声で鳴きおる』
 返り血で体を濃緑に染め、狂悦の笑みを浮かべる。
 そのまま顎を掴み、倒れている結和那へと向ける。
『喰らえ。さもなくば、遠からず死ぬぞ?』
「……生憎だけど、そんなつもりは、毛頭無いわ」
 いかにばけものとはいえ、ここまでやられればやがて死に至る。
 それでも、ひと一人を喰らえば生きながらえられるというなら、やはりそれが化生たる所以か。
『実に……』
 つまらぬ、と。
 完全に興を殺がれたと、忌々しげに呟いた。


[長夜]
『……ひとつ”いいこと”を教えてやろう』
『お前は、この腕に見覚えないか?』
「?」
「一体なにを――っ!?」
 その、腕の内側についた疵を見た瞬間、瑞香の記憶が弾ける。
『思い出したか。これは遥か昔、お前がつけた爪痕だ』
『ふむ。いえば、あれが最初の(←三文字 傍点)出逢いであったのよな』
「! あ、あれは――!!」
『……何を勘違いしていたのかは知らぬが、アレはお前の同類でも、ましてや親などではないぞ?』

 儂の拵えし、蜘蛛を真似ただけの人形よ。

 毎晩のように、村人が惨殺された。
 まだ面と向かって言われはしないものの、確かに疑われていると感じた瑞香は、ひとり外に出て。
 息を殺して”それ”が来るのを待ち続けた。
 月影に浮かぶ蒼銀の大蜘蛛。
 色を除けば、自分の本来の姿そっくりの。
 瑞香は、そのばけものが村人を引き裂き、喰らっていくのをただ見ているしかなかった。
 止められなかった。自分の爪は通じず、あっさりと返り討ちにあった。
 気がついたときには、既に妹は――され、そのまま死を選んでいた。
 何も……最愛の妹すら助けられなかった無力さと、化蜘蛛の”食事”を見たときに知った、自分の内なる欲望。
 それらが、生きる気力を殺ぎ、村人達の私刑に甘んじようとした理由。
「……そう。ほんとうに、最初から」
『うむ。永い間、実に愉しませてもらった』
 男はそれを告げる瞬間こそを。ずっと、心待ちに。 


[幕間 道程]
 あるいは、愛などというものだったのかもしれない。
 ただ単に、男の望むそれが、互いに傷つけ殺し合うという形であっただけ。
 一目見たときから惹かれ、策を仕掛け、そして救ったのも愛ならば、それから後……欺き、操り。
 自らを憎ませたのも、また――愛。
 歪んで澱んだそれが、瑞香を、想い人を縛っている、ほんとうの糸。


[散華]
「姉様っ!?」
 開け放されたままの扉から駆け込んできた少女が、瑞香に向かい悲痛な叫びを上げる。
「まゆり!? 帰りなさいと、言ったはずでしょ!!」
「いいえ! 姉様を置いてどこかへ行くなんて、できません!!」
『姉様、と』
『これはまた……』
「! アラツチ、彼女は取るに足らない、ただの人間よ!」
『お前が人を気にかけるか。』

「――なにをっ!!」
『なに、戯れごとよ』
 言って、その右手を見せ付けるように
 瑞香の肢を真似たそれは、彼女に屈辱を与えるためのもの。ならば、このような使い方は、最上の一つだろう。
「待ちなさい!!」
 その声を嘲うように振り返り、糸を放つ。両足に両の腕も包まれ、動かすことも出来なくされる。
 手を伸ばせば届く距離。すぐ傍にいるのに、かなわない。
 その絶望こそ、男の味合わせたいもの。
『娘。お前の主の代わりに、少々愉しませてもらうぞ』
『腑抜けたのがお前のせいならば――台無しにした責は負ってもらおう』
「っ!! やめなさい!!」
 もがくも解けることなどなく。
 見せ付けるようにゆっくりと振り上げられ……。
「アラツチぃいいい!!」
「姉、様……」

 紅い、華が咲いた――。






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