[まゆり] 「なにかしら?」 「……あ、あの。あの人たちは」 「もう居ないわ」 「えっ?」 「この世の、何処にもね」 色々な理由で不安げに尋ねてくるまゆりに、瑞香は優しく毒を含んだ微笑で返す。 少々の意地悪な感情があったのは確かだし、それで非難されたとしても、諭すだけの自信はあった。 暫くの間。じっと黙っていた少女の口から出た言葉は、少々意外なものだった。 「――ありがとう、ございます」 「ふふ?」 「悪い娘(こ)ね。気に入らない者が死んだのが、喜ばしいのかしら?」 悪戯げにからかう。あえて「死」などと、直接的な言葉を使ったりして。 瑞香の言を、まゆりは慌てることもなく、静かに否定する。 「――いえ、そうじゃないです」 「わたし、きっと、嬉しいんだと思います」 「わたしのことを考えてくれるひとがいるってことが」 「だから――」 「そう――ね、姉様。と呼んでもらえるかしら?」 「”姉様”……ですか?」 「――はいっ。わかりました、姉様」 遠いむかし、妹から呼ばれていた、そんな呼び名で。 彼女なりの愛情の表れだったのだろう。 そして、それをまゆりの方も理解して。 「姉様と一緒にいられるのなら、他に何も――いりません」 「可愛らしいこと」 「だけど、気が変わったら、あなたも喰べてしまうかもしれないわよ?」 「……それでも、いいんです」 「――そう」 くすり、と。愛でるように。 「あの……」 「? 何を持っているのかしら?」 「あの、今夜は暖かいですし、裏庭で一緒にと思ってお茶とお菓子を作ってきたんですけど」 そこで、初めて気付いたらしく、顔を紅く染めてもじもじしていた娘は突然に俯いてしまう。 「?」 「……姉様、こういうの――食べません、よね」 (……ああ) 「くすっ」 「大丈夫よ。食べないというだけで、食べられないというわけではないから」 「私のために用意してくれたのでしょう?」 「あ……はいっ。それじゃ、行きましょう!」 「ふふ。今落ち込んだと思ったら。面白い娘(こ)ね」 「なぁに?」 「あの……わたし、嫌です」 「?」 「姉様が他の人に目を向けるのって、嫌です」 じっと、目を逸らさず見つめてくる。 話を聞き、瑞香にとって必要なことだと知った上で、なお。 そのひたむきな瞳に、瑞香は――。 「いいわ。それでは、やめておきましょう」 「えっ?」 「どうしても、というわけではないのだから」 「そんな泣きそうな目で見られては……ね」 「あ……」 真っ赤になって慌てるまゆり。 それを見て、くすくすと笑う瑞香。 「あっ、姉様。なにか咲いてます」 「釣り鐘人参ね」 薄い青紫の釣鐘形の花。秋風に揺られている様は、かすかに鈴の音が聞こえて来そうな。 「昔は、春の山菜として大事にされたのよ」 「山でうまいはオケラにトトキ、嫁にやるのもおしござる」などという俗歌もあるほど。 山地の取って置きのご馳走――「とっておき」が訛ったものという説もある。 「へぇ〜、姉様、物知りなんですね」 「それはそうね。長生きしているから」 「――なるほど」 「まゆり? そこは頷いてもらうと困るのだけれど?」 「あっ、すいません」 「ふふふ」 「姉様!?」 まゆりが、駆けてくる。大きな、蜘蛛そのものとなっている自分の姿になんら躊躇することなく。 『っ……!』 躊躇う。彼女の前で人を裂くことを。 こんな醜い、忌まわしい姿をしていることを。 「……まゆり」 人の姿に戻る。全てが巻き戻るように。 糸でつくられた衣服も元通りに、ただ無数の傷だけが。 冷静な行動とはいえない。肉体の強度、そもそもの生命力自体、格段に落ちる。 「姉様っ!!」 けれど、どうして晒せるだろう。あのような浅ましい姿を、この少女の前で。 「やめなさい、汚れるわよ」 「っ、そんなこと――」 傷口から垂れ流される濃緑の体液にも構わず、少女はすがり付いてくる。 「こんな、ひどい……怪我をして」 悲痛な声は、ただただ思い人を心配するだけで。一筋の嫌悪も、混じっていない。 目を向ければ、既に結和那の姿は無い。糸の縛を解き、主が元へといったのだろう。 ようやっとその身を絡めとり、後一歩というところでの、完全な失態。 だが、それを追うよりも先にすることがある。 「いいからもう、帰りなさい」 「ここから先は、人が立ち入るものではないわ」 静かな、確かな拒絶。 「そんな!!」 自分のことを考えてということはわかる。だからこそ、悲しい。 「また……ひとりになるんですか?」 いろいろな人が、彼女を置いて、捨てていった。 また、今も……と。 それでも。そんな目をされても。 譲れないことがある。だから、精一杯の言葉をかける。 「……明日を迎えられたら」 「また遊んであげる。だから、聞き分けなさい」 「っ! いや、です。離れたくない!!」 「一緒に、外へ行くのもいい。姉様、言ったじゃないですか」 「そうね……」 「でも、けじめはつけなければね」 「……え?」 「前に言ったでしょう? 私は、このときのために生きてきたのよ」 「迂回路は無いわ。どちらにせよ、前に進むしかない。今更引き返すこともできない」 「姉、様……」 「いいわね? ちゃんと帰るのよ。でなければ――愛想尽かしをするから」 「っ!!」 目を見開き、大粒の涙を零す少女。 まゆりの、そのすべてを振り切り、走る。 視線が、泣き声が、想いが……足を止めようと絡みつく。 無理やりに引きちぎり、前へ進む。 振り向けば折れる。立ち止まれば掴まる。 (まったく……らしくない) ただ一人の人間の少女が、なぜこうも気にかかるのだろう。 どこか重ね見ているのだろうか。 あの日の思いの、その続きを――。 (ばからしい) こんなことを考えるなど、それこそどうかしている。 そんな自分を振り払うように、敵と、その人形の待つ屋上への扉を勢いよく開け放った……。 [穿] 『半瞬……。届かなんだな』 六本。結和那に折られた二本を除いた全て。黒と黄に彩られた肢が、その身に絡まる糸を貫き生え、アラツチを串刺す。 『いまだそれ程の余力を残していたことは驚いたがな』 それで、この後はどうする? 言外に、これで終わりかと問うている。 背から胴を突き抜けた肢の全てが、今の一撃が振り絞ったものであることを語っている。 終わりでなかったとしても、万一にも自分を滅(ころ)すことなど出来ないと確信している。 「さぁ……ね」 そのまま糸を放ち、自らの肢と、男の体をくくりつける。 『落とすつもりか? これはまた無謀な』 このまま落ちれば、間違いなく自分は死ぬだろう。しかしそれも、自分の体が下になったときのみ。 無論、それを回避する法などいくらでもある。 男がそう告げてやるも、蜘蛛は意に介さず、不敵に笑むばかり。 『ふむ……では、こちらから行こうか』 詠うように呟く。倒れていた結和那の体がゆっくりと、不自然に起き上がる。 『数本、切り損ねたな』 少々ぎこちなく。操(く)り糸の少ないそれは「壊れかけた操り人形」そのもの。 ゆっくりと、傍らの弓を取り、こちらへ歩んでくる。 『自身が動けぬならば、他の者にやってもらうしかなかろう?』 余裕からの見下した嗤い。 不可能ではない、身の糸を解くという行為を放棄して。 勝利を確信した故に、より陰湿なほうへと。 「そうね――」 「確かにその通り。本当にいいことを言うわ」 だから――そう。 その男は、彼女の弓弦が自分の首を切り落とした時、本当に不思議そうな表情(かお)をした。 [尽花] 「まゆり……っ?」 「あ……姉、様」 駆け寄り、声をかけるも、既に悟る。 助からない。 アラツチの爪は、まゆりのいのちを、確実に切り裂いた。 流れ出る血は、残酷なまでに紅く。 「しっかり、なさい……」 言って、滑稽だなと自分でも思う。 こんな風に取り乱すこと。無駄だとわかっていることを言うなんて。 「姉様……泣いて、いるの?」 そんな筈はない。そんなもの、遠の昔に捨ててきた。 そう見えたとしたら―― 「雨よ。その雫が伝っただけ」 「でも、声が……」 泣き出した空。泣き出しそうな声音。 いつからだろう。 本当にいつの間にか、自分の内を占めていた、ちっぽけな、人間の少女。 「帰りなさいと、言ったはずでしょう?」 「どうしても……姉様のことが心配で」 「なんの役にも立たないって、わかってたんですけど……」 それでも―― 「まったく……。しようのない娘(こ)」 瑞香に出来るのは、ただぎゅっと抱きしめることだけで。 それが、本当に悲しい。 「……姉様」 「――なに?」 ゆっくりと差し出される――その力すらもう無い、その手を握る。 「私を、食べてください」 「……」 「姉様、いつか言いましたよね?」 だけど、気が変わったら、あなたも喰べてしまうかもしれないわよ? 「私は、もう一緒には行けないから……」 だから、私を食べてください 「同じ助からないのなら、姉様と一つになって、一緒に――」 「まゆり……」 「私、姉様と一緒に、いたいです」 「…………」 [幕間 俤(おもかげ)] 「くだらない事に、巻き込んでしまったわね」 間違えていたとは思わない。 けれど、間違えればよかったのかもしれない。 自分だけの「けじめ」などというものに縛られて。 本当に大事なものに、気付かないふりをして。 「結局、喪うばかり。不器用……なのかしらね」 哀しげに、寂しげに。瑞香の自嘲は、緩やかに風に乗って。 [最終章 夕欠] 夕焼け。沈みかける太陽が、校舎をその内部まで橙(あか)く染めている。 先日の事件――事故により、下校時刻が早められ、既に残っている生徒はいない。 教師すら、その役目を終えたかのように早々に立ち去っている。 ……それは、一夜にして出来た、東校舎の無数の傷のせいではない。 人払い。 瑞香がかけた、学校全体を覆うそれによって。 「……」 奇妙な感慨と共に、校内をゆっくりと歩いていく。 一月。今まで生きていた時間からすれば、ほんの瞬きほどにすぎない。 しかし、確かに長かった。そういえるもの。 それも、もう与えられることはないだろう。 少女は既に失く、誰も彼女に代わることなど出来ないのだから。 いつの間にか、彼女との思い出が無い場所はなくなっていた。 「なにを……」 再びあの教室に巣を張り、傷が癒えるまで眠るのもいいかもしれない。 彼女の想い出を揺り籠に、子守唄に。 傷が癒えるまで、ずっと。 「なんて、くだらないこと」 「想い出に浸って? そんなことをして」 なんになるというのか。それこそ無意味なことだ。 自ら死を選ぶのが間違っているというなら、心の死だって、間違っている。 「だいたい、そんなことをしても、彼女は喜びませんよ」 前方から。不意を突くように。 優しげな声と、鋭い矢が射ち込まれる。 「……どういうつもりかしら」 眼前。無造作に右手で掴んで止める。 肉の焼ける音、臭い、靄と立ち上る白煙を無視して。そう無感情に返す。 対する結和那も、冷徹に。 「あなた、彼女を――まゆりちゃんを、見殺しにしましたね」 巣の前の廊下、三度目の対峙。言葉を矢として放つ。容赦なく、切りつける。 「見殺しに、した」 訝しげに呟く。 そんなはずはない。けれど――。 「ええ。そうかもしれないわね」 あの瞬間、間に合わなかったのではなく、自身が躊躇したために。 勝機ということを考えれば、間に合う時では浅いのだ。 あの一撃で、アラツチが結和那を使うように持っていくには。 相手が躱すことの出来ないほどの隙を見せる、その時でないと。 「勝つ」ために「生き残る」ために。 だから、見殺しにしたというのは、間違ってはいない。 「自分の命と他人の命。そんな単純なことではないですね」 「もっと早くに仕掛けていたなら、たとえその時は助けられたとしても」 「――結果として、全員死んでいたでしょうから」 考えてのものでは無いだろうことは分っていた。 けれど、それを自覚させることだけは必要だった。 三人、それぞれの為に。 「ですから、この一矢は私なりのけじめです」 「そう」 瑞香はそっけなく。 言外の彼女の意を、確かに理解して。 [彼岸] 「――あなたは、これからどうするんですか?」 「そうね。此処に、間借りをしようかとも思ったけれど」 「どうにも性にあわないから」 このままどこかへ行く、と。 「そう……ですか」 「気を落とさないで――なんて変ですけど」 「ええ、それでは、ね」 「もう会うことも無いだろうけど」そう言って、彼女は巣を後にし、学校から去っていった。 ……それが、少女の見た、その妖姫の最後。 [夢果 〜遠幻〜] 夢を見る。 あの少女と、共に街を歩く。 まゆりは本当に嬉しそうに、満面の笑顔。となりの自分も、柄になく表情(かお)をほころばせて。 緩やかにあまい時は流れていく。 あわく、穏やかに。 眠るだけでまた会える。 ひとときの、幸せな、儚い夢の中で。 |